中国の歴史
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五代十国・宋画像:Compass in a wooden frame.jpg中国航海術の偉大な発明、羅針盤

唐の滅亡後、各地で節度使があい争った。この時代を五代十国時代という。この戦乱を静めたのが、960年に皇帝となってを建国した趙匡胤である。ただし、完全に中国を宋が統一したのは趙匡胤の死後の976年である。

趙匡胤は、節度使が強い権力をもっていたことで戦乱が起きていたことを考え、軍隊は文官が率いるという文治主義をとった。また、これらの文官は、科挙によって登用された。宋からは、科挙の最終試験は皇帝自らが行うものとされ、科挙で登用された官吏と皇帝の結びつきは深まった。また、多くの国家機関を皇帝直属のものとし、中央集権・皇帝権力強化を進めた。科挙を受験した人々は大体が、地主層であった。これらの地主層を士大夫と呼び、のちの時代まで、この層が皇帝権力を支え、官吏を輩出し続けた。杭州

唐は、その強大な力によって、周辺諸民族を影響下においていたが、唐の衰退によってこれらの諸民族は自立し、独自文化を発達させた。また、宋は文治主義を採用していたたため、戦いに不慣れな文官が軍隊を統制したので、軍事力が弱く、周辺諸民族との戦いにも負け続けた。なかでも、契丹族タングート族西夏女真族は、中国本土にも侵入し、宋を圧迫した。これらの民族は、魏晋南北朝時代五胡と違い、中国文化を唯一絶対なものとせず、独自文化を保持し続けた。このような王朝を征服王朝という。後代のも征服王朝であり、以降、中国文化はこれらの周辺諸民族の影響を強く受けるようになった。

1127年には、金の圧迫を受け、宋は、江南に移った。これ以前の宋を北宋、以降を南宋という。南宋時代には、江南の経済が急速に発展した。また、すでに唐代の終わりから、陸上の東西交易は衰退していたが、この時期には、ムスリム商人を中心とした海上の東西交易が発達した。当時の宋の特産品であった陶磁器から、この交易路は陶磁の道と呼ばれる。南宋の首都にして海上貿易の中心港だった杭州は経済都市として栄え、元時代に中国を訪れたマルコ・ポーロは杭州を「世界一繁栄し、世界一豊かな都市」と評している。

文化的には、経済発展に伴って庶民文化が発達した。また、士大夫の中では新しい学問をもとめる動きが出て、儒教の一派として朱子学が生まれた。


モンゴル帝国

13世紀初頭にモンゴル高原で、チンギス・ハーンが、モンゴルの諸部族を統一し、ユーラシア大陸各地へと、征服運動を開始した。モンゴル人たちは、東ヨーロッパロシア小アジアメソポタミアペルシャアフガニスタンチベットに至る広大な領域を支配し、この帝国はモンゴル帝国と呼ばれる。中国もまた征服活動の例外ではなかった。当時、黄河が南流し、山東半島の南に流れていたため、漢民族は北方民族の攻勢を防げなかった。華北は満州系の女真族によるが、南部を南宋が支配していたが、金は1234年、南宋は1279年にモンゴルに滅ぼされた。

モンゴル帝国は各地に王族や漢人有力者を分封した。モンゴル帝国の5代目の君主(ハーン)にフビライが即位すると、これに反発する者たちが、反乱を起こした。結局、モンゴル帝国西部に対する大ハーン直轄支配は消滅し、大ハーンの政権は中国に軸足を置くようになった。もっとも、西方が離反しても、帝国としての緩やかな連合は保たれ、ユーラシアには平和が訪れていた。1271年にクビライはを国号として中国支配をすすめた。宋代に発明された火薬は元寇の時使用され、日本の武士を驚かせた

モンゴル帝国(元)は未だ征服していなかった南宋への牽制のためにも日本に対して通交を求めたが、日本側は断った。このため二度に渡り日本に侵攻したが、成功しなかった(元寇)。モンゴル帝国(元)は三度目の日本侵攻を計画したが、実現には至らなかった。

中国南部を支配していた南宋を1279年に元が滅ぼしたのはすでに見たとおりである。

モンゴル帝国(元)の中国支配は、伝統的な中国王朝とは大きく異なっていた。元は中国の伝統的な統治機構を採用せず、遊牧民の政治の仕組みを中国に移入したからである。元の支配階級の人々は、すでに西方の優れた文化に触れていたため、中国文化を無批判に取り入れることはなかった。それは政治においても同様だったのである。それに伴い、伝統的な統治機構を担ってきた、儒教的な教養を身に付けた士大夫層は冷遇され、政権から遠ざけられた。そのため、彼らは曲や小説などの娯楽性の強い文学作品の執筆に携わった。この時代の曲は元曲と呼ばれ、中国文学史上最高のものとされる。また、モンゴル帝国がユーラシア大陸を広く支配したために、この時期は東西交易が前代に増して盛んになった。

モンゴル帝国(元)は、宮廷費用などを浪費しており、そのため塩の専売策や紙幣の濫発で収入を増やそうとした。しかし、これは経済を混乱させるだけであった。そして、庶民の生活は困窮した。こうした中、各地で反乱が発生した。中でも最大規模のものは1351年に勃発した紅巾党の乱であった。紅巾党の中から頭角をあらわした朱元璋は、1368年南京で皇帝に即位してを建国した。同年、朱元璋は元の都の大都を陥落させ、元の政府はモンゴル高原へと撤退した。撤退後の元のことを北元といい、明と北元はしばしば争った。明側は1388年に北元は滅んだと称しているが、実質的にはその後も両者の争いは続いた。


明清帝国鄭和の南海大遠征の時の巨艦・「宝船」

洪武帝の死後、孫の建文帝が即位したが、洪武帝の四男である朱棣が反乱(靖難の変)を起こし、朱棣が永楽帝として皇帝になった。永楽帝は、モンゴルを攻撃するなど、積極的に対外進出を進めた。また、鄭和を南洋に派遣して、諸国に朝貢を求めた。この時の船が近年の研究によって長さ170m余、幅50m余という巨艦で、その約70年後の大航海時代の船の5倍から10倍近い船であったことが分かっている。

また、永楽帝によって現在に至るまで世界最大の宮殿である紫禁城が北京に築かれた。

永楽帝の死後、財政事情もあって、明は海禁政策をとり、貿易を著しく制限することとなる。


不朽の名作から
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:Mamenoki