辛亥革命により清国が消滅すると、その旧領をめぐって中国、モンゴル、チベットは、それぞれに自領域を主張した。
中国は清領全域を主張した。これに対して、モンゴルとチベットは、自分たちは清朝の皇帝に服属していたのであって中国という国家に帰属するものではなく、服属先の清帝退位後は中国と対等の国家であると主張し独立を目指す動きが強まった。ポタラ宮、当時のチベットの中心地
1913年、モンゴルではボグド・ハーンによって、チベットではダライ・ラマ13世よって中国からの独立が宣言され、両者はモンゴル・チベット相互承認条約を締結するなど国際的承認をもとめ、これを認めない中華民国とは戦火を交えた。 この状況は、モンゴル域への勢力浸透をはかるロシア、チベット域への進出をねらうイギリスの介入をゆるし、モンゴル・ロシア・中華民国はキャフタ協定に調印批准、チベット・イギリス・中華民国はシムラ協定(民国政府のみ調印、批准されなかった)が模索されたものの問題の解決には至らなかった。
ダライ・ラマを補佐していたパンチェン・ラマは親中国的であったために、イギリスに接近するダライ・ラマに反発し、1925年に中国に亡命した。1933年、ダライ・ラマ13世が死去、中国の統治下にあったチベット東北部のアムド地方(青海省)で生まれたダライ・ラマ14世の即位式典に列席した国民政府の使節団は、式典が終了したのちも、蒙蔵委員会駐蔵弁事處を自称してラサにとどまった。1936年には長征中の中国共産党の労農紅軍が、カム地方東部(四川省西部、当時西康省)に滞留中、同地のチベット人に「チベット人民共和国」(博巴人民共和国)[9]を組織させたが、紅軍の退出とともに、ほどなく消滅した。
この問題は、モンゴルについては、1947年、外蒙古部分のみの独立を中華民国政府が承認することによって、チベットについては、1950年、十七ヶ条協定によってチベットの独立が否定され中華人民共和国の一地方となったことによって、一応の決着をみた。
東トルキスタン(新疆)では、19世紀中に統治機構の中国化が達成されていた。すなわち、旗人の3将軍による軍政と、地元ムスリムによるベク官人制にかわり、省を頂点に府、州、県に行政区画された各地方に漢人科挙官僚が派遣されて統治する体制である。そのため、辛亥革命時、東トルキスタンでは、地元ムスリムがチベットやモンゴルと歩調をあわせて自身の独立国家を形成しようとする動きはみられず、新疆省の当局者たちは、すみやかに新共和国へ合流する姿勢を示した。この地では、楊増新が自立的な政権を維持し、またソ連と独自に難民や貿易の問題について交渉した。楊増新の暗殺後は金樹仁が実権が握ったが、彼は重税を課して腐敗した政治をおこなったため、1931年には大規模な内乱状態に陥った。その後金樹仁の部下であった盛世才が実権を握るようになり、彼はソ連にならった政策を打ち出して徐々に権力を強化した。一方で1933年には南部で東トルキスタン共和国の独立が宣言されたが、わずか6ヶ月で倒れた。
社会主義国化と粛清(1949年〜1957年)「建国宣言」を行なう毛沢東
1950年中ソ友好同盟相互援助条約が結ばれた。これは日本およびその同盟国との戦争を想定して締結されたものである。この条約でソ連が租借していた大連、旅順が返還され、ソ連の経済援助の下で復興を目指すこととなった。1953年より社会主義化が進み、人民政治協商会議に代わって全国人民代表大会が成立、農業生産合作社が組織された。
1950年に、中国共産党は独立国だったチベットに軍事侵攻し全土を制圧した。1951年には中華人民共和国とチベット政府「ガンデンポタン」は「中央人民政府と西藏地方政府の西藏平和解放に関する協議」(いわゆる「十七か条協定」)を締結し、チベット全域が中華人民共和国の実効統治下に組み入れられた。その後中国共産党政府はチベット国民に対する弾圧や虐殺を繰り返し行なうことでチベットを支配し続けており、さらに漢人の移民を積極的に実行して現在ではチベットにおける漢人とチベット人の人口比率は逆転していると言われている[要出典]。
1956年にソ連でフルシチョフによって「スターリン批判」がおこなわれると、東欧の社会主義国に動揺がはしった。中国共産党政府も共産圏にある国としてこの問題への対処を迫られ、この年初めて開催された党全国代表大会では、「毛沢東思想」という文言が党規約から消えた。そして全く一時的に(わずか2ヶ月)「百花斉放、百家争鳴」と称して民主党などの「ブルジョワ政党」の政治参加が試みられた。しかしブルジョワ政党が中国共産党政府による一党独裁に対して激しい批判を噴出させたため、逆に共産党による反右派闘争を惹起し、一党支配体制は強められた。一方で中ソ協定が結ばれ、軍事上の対ソ依存は強くなった。この時代の中華人民共和国をソ連のアメリカに対する緩衝国家あるいは衛星国家とみなすことも可能である。しかし徐々にデタント政策へと転回し始めていたソ連の対外政策は、中国共産党政府の中華民国に対する強硬政策と明らかに矛盾していた。
1958年に、毛沢東は大躍進政策を開始し、人民公社化を推進した。当初はかなりの効果をあげたかに見えた人民公社であったが、党幹部を意識した誇大報告の存在、極端な労働平均化などの問題が開始3ヶ月にしてすでに報告されていた。毛沢東はこのような報告を右派的な日和見主義であり、過渡的な問題に過ぎないと見ていたため、反対意見を封殺したが、あまりに急速な人民公社化は都市人口の異様な増大など深刻な問題を引き起こしていた。
1959年と1960年には、大躍進政策の失敗と天災が重なり、大規模な飢饉が中国を襲い、少なくとも2000万人(『岩波現代中国事典』によれば3000万人。