1889年(明治22年)、皇室の家内法として皇室典範(旧皇室典範)が定められ、皇位継承順位が明文化された。この旧・皇室典範15条では、儲嗣タル皇子を皇太子としていた。1947年(昭和22年)に法律として定められた現行・皇室典範8条前段では、皇嗣たる皇子が皇太子とされている。「儲嗣」もしくは「皇嗣」は、いずれも最も嫡系に近い皇族男子を指す。
また、皇位継承順位の変更は、「皇嗣精神若ハ身体ノ不治ノ重患アリ又ハ重大ノ事故アルトキ」(旧典範9条)、「精神若しくは身体の不治の重患があり、又は重大な事故があるとき」(現典範3条)のみに許されている。
このため、皇室典範制定以前と異なり、立太子の礼は皇太子の地位の要件ではない。立太子の礼は、天皇における即位の礼と同様、内外に地位を宣明するための儀式である。江戸時代以前には、幼少の儲君の立太子礼も行われた。これに対して、皇室典範制定後は、皇太子の成年を待って立太子の礼を行う。なお、皇太子および皇太孫の成年は18歳とされている(旧典範13条、現典範22条)。
現行皇室典範施行後、立太子の礼は2回行われた。
明仁親王の立太子の礼(1952年(昭和27年)11月10日)
徳仁親王の立太子の礼(1991年(平成3年)2月23日)
また、成年の皇太子は、摂政着任の第一順位でもある。天皇に「精神若しくは身体の疾患又は事故があるとき」であっても、それが一時的なものであり、摂政を置くまでに至らない場合には、国事行為臨時代行が置かれる(国事行為の臨時代行に関する法律)。この国事行為臨時代行の着任順位も、摂政に準じる。
1921年(大正10年)から1926年(大正15年)まで、皇太子裕仁親王が摂政となった。王政復古以降、皇太子以外の者が摂政となった例はない。国事行為臨時代行については、昭和天皇病気療養時に、皇太子明仁親王の外国旅行が重なり、皇長孫である徳仁親王が代行となった例がある。
皇太子と皇太子妃の敬称は、他の親王・王とその妃、および内親王・女王と同様に殿下である。皇太子は、皇統譜では、皇太親王と記述される。
現在の皇室典範には、皇太弟に関する記載はない。「皇太孫」は皇室典範に記載があり、「皇嗣たる皇孫」(皇室典範8条後段)のこととされる。
イギリスでは、欠格事由のない限り、王の長男が王位継承権第一位(Heir Apparent)であり王太子になる。王の長男はコーンウォール公爵やロスシー公爵の称号を自動的に与えられる。
イギリス王太子とプリンス・オブ・ウェールズ(ウェールズ公)はしばしば同一視されるが、必ずしもイギリス王太子がプリンス・オブ・ウェールズであるとは限らない。プリンス・オブ・ウェールズの称号は、自動的に与えられるものではないからである。たとえば、1952年のエリザベス2世即位により、長男チャールズ王子は自動的に王太子となりコーンウォール公爵となったが、1958年までプリンス・オブ・ウェールズではなかった。
日本語の「(男性の)皇太子」にあたる語は、英語ではCrown Princeであり、ドイツ語ではKronprinzである。これは実際にドイツなどで称号として用いられたものである。
この語は、今日では主にスカンディナヴィア諸王国の王太子の呼称として用いられる。たとえば、2007年10月現在のスウェーデンの女性皇太子ヴィクトリアは、HKH Kronprinsessan Victoriaと呼ばれ、これは英語に直訳するとHRH Crown Princess Victoriaとなる。
一方、神聖ローマ帝国の皇太子には「ローマ王(Rex Romanorum)」の称号が授けられていたが、これはハプスブルク家による帝位世襲化以降のことである。ハプスブルク家の皇帝は、次期皇帝としての「ローマ王」の称号を自家の後継者に与えることで、帝位の世襲を維持した。これとは異なるが、フランス皇帝ナポレオン1世も息子ナポレオン2世を「ローマ王」に任命している。
なお、サラエボで暗殺されたフランツ・フェルディナント大公は、オーストリア大公としてオーストリア=ハンガリーの帝位および王位の継承者ではあったが、Kronprinzの称号は有していなかったため、日本語でもごくまれに皇太子とは呼ばない事がある。
オランダ・スペインなどにおいても、上記の諸国と同様に貴族としての儀礼称号が王太子に与えられる。オランダ王太子の称号である「オラニエ公(Prins van Oranje)」は、オランダ王家であるオラニエ=ナッサウ家当主が、オランダ王国成立以前には南フランスのオランジュ(Orange、オランダ語でOranje)の領主・オラニエ公でもあったことに由来する。スペインの王太子は「アストゥリアス公(Pr?ncipe de Asturias)」の称号を持つ。
フランス王国では王太子に「ドーファン(dauphin)」の称号が与えられた。元々はフランス南東部のドーフィネ(Dauphin?)地方の領主の称号であったが、1349年に同地方を併合して王太子領として以降、王太子の称号となった。
ロシア帝国では、上記の諸国のような貴族的称号ではないが、皇太子に対して「皇帝(ツァーリ)の息子」という意味の語である「ツァレヴィチ(царевич, tsarevich)」という呼称が用いられた。