1640年頃から、皇帝は和平に向けた動きを見せ始めるが、その高圧的な態度に応じる勢力はいなかった。しかもスペイン軍はこの時期からフランス・オランダの前に敗退を重ね、没落の兆しを見せていた。なおこの年、スペインのくびきを脱したポルトガル王国が独立している。
1642年、皇帝軍はブライテンフェルトで再びスウェーデン軍に敗れた。皇帝軍は1631年にもこの地で一敗地にまみれていた。皇帝はさらに逼迫し、和平の道を模索し始めた。この頃になると、帝国全体で厭戦気分が蔓延するようになる。1642年の暮れにはライン川の両岸で和平会議が設置されたが、1644年にようやく交渉が開始される。戦争は、交渉を優位に運ぶために、戦争を終わらせるための戦いが激化するという矛盾した状況になっていく。
帝国法によって国際会議は設置されたが、戦争の主導権を奪い返したスウェーデンが和平会議も牛耳って行く。この時期フランスでは、1642年に宰相リシュリュー、翌1643年にフランス王ルイ13世が相次いで死に、リシュリューの政策は、新宰相マザランに引き継がれるが、新国王ルイ14世はまだ幼く、フランス国内は不安定となった。そのためマザランは、引き継いだ政策のうち、「国王を神聖ローマ皇帝に」という野心を放棄せざるをえなくなる。しかし、1642年にフランス王族コンデ公ルイ・ド・ブルボンがロクロワの戦いで、スペインを殲滅、さらに1644年のフライブルクの戦いで、カトリック軍の中心バイエルン公を破ったことで、フランスは三十年戦争における勝利を確実なものとした。
トルステンソン戦争〜ボヘミア侵攻
一方スウェーデンは、ドイツで転戦するスウェーデン軍を背後から脅かすデンマークと戦端を開いた。この戦争は指揮官の名前からトルステンソン戦争と呼ばれる。スウェーデンはオランダ海軍も味方につけてデンマークを屈服させ、三十年戦争によって中断されたバルト海の制覇をついに成し遂げた。またこの戦争で、グスタフ・ホルン将軍が復帰している。皇帝軍はデンマークの支援に駆けつけたが、惨敗した。
スウェーデンは三十年戦争の勝利を確実にするために、再びボヘミアへ侵攻する。1645年、プラハ近郊のヤンカウの戦いで、またしても皇帝軍は大敗した。この時、プラハにいた皇帝フェルディナント3世は狼狽してウィーンへ逃亡したが、これはかつてのプファルツ選帝侯フリードリヒ5世(ボヘミア冬王)の逃亡に酷似していたため、「フリードリヒの逃亡」と揶揄された。この事件は、ハプスブルク家の敗北を決定的なものとした。同年、バイエルン軍もスウェーデン軍に敗れた。バイエルン公はフランスとよりを戻し、孤立したザクセン公もスウェーデンと休戦条約を締結した。
この一連の戦況によって和平会議は一気に進展した。国際会議にはイングランド、ポーランド、ロシア帝国、オスマン帝国を除いた全てのヨーロッパ諸国が参加していた。しかし1646年、皇帝軍がヤンカウの敗戦から驚異な復活を成し遂げた。皇帝軍がバイエルンに合流する恐れが生じ、スウェーデンはバイエルンに再度侵攻する。フランスはこれを越権行為として、スウェーデン牽制の為にテュレンヌ将軍を派遣した。両者に挟まれたバイエルンは屈服したが、この後バイエルン軍の将軍が反乱を起こし、皇帝軍に合流する。
1618年にボヘミア・ファルツ戦争が勃発した地で最後の戦闘が行われた。1648年、スウェーデン・フランス連合軍は、皇帝・バイエルン連合軍を敗り、大勢は決した。スウェーデン軍はプラハを包囲し、これを占領した後帝都ウィーンを攻める態勢を固めた。皇帝はついに10月24日、和平条約への署名を決断する。
しかし、スウェーデンはなおボヘミアの征服とプロテスタント化を諦めず、1648年7月26日以降、プラハでは戦闘が続いた。しかし今やカトリックの最後の砦となったプラハは激しく抵抗し、降伏には応じなかった。後にスウェーデン王となるカール10世(スウェーデン軍総司令官)も援軍に駆けつけ、包囲戦は3ヶ月にも及んだ。
11月2日、プラハにヴェストファーレン条約の締結の報が届き、この日ついに三十年戦争は終結した。しかしスウェーデンでは親政を開始したクリスティーナ女王の政策によって、和平交渉で新たな展開が起こることとなる。
この戦争は、神聖ローマ帝国という枠組みを越えて全ヨーロッパの情勢に多大な影響を与え、その後のフランス革命に至るヨーロッパの国際情勢を規定することになった(ヴェストファーレン体制)。1648年に締結された史上初の多国間条約であるヴェストファーレン条約(ウェストファリア条約)によって戦争に最終的な決着がつけられ、この結果、およそ300に及ぶ領邦国家の分立状態が確定することになった。神聖ローマ帝国は、この後も1806年にナポレオン・ボナパルト(ナポレオン1世)によって滅ぼされるまでの間存続しつづけたが、実体のない名ばかりの国家として亡霊のごとく生き続けることとなる。オーストリア・ハプスブルク家はドイツ王ではなくオーストリア大公、後にオーストリア皇帝として18世紀、19世紀を生き延びることとなった。
長期間にわたる戦闘や傭兵による略奪でドイツの国土は荒廃し、当時流行していたペスト(黒死病)の影響もあって人口は激減し、交戦国間の経済にも多大なマイナス効果を及ぼすことになった。
なお、フランスとスペインの戦いは三十年戦争以後も継続し(西仏戦争)、1659年、ピレネー条約によって終結した。この条約は「ルシヨン、セルダーニャ、アルトワの割譲」「ルイ14世とフェリペ4世の王女マリア・テレサの結婚」「マリア・テレサは50万エスクードを持参金とし、その代償としてスペイン王位継承権は放棄」というものであった。