1756年、ザルツブルクに生まれる。父・レオポルトは息子が天才であることを見出し、幼少時から音楽教育を与えた。父とともに音楽家としてザルツブルク大司教ヒエロニュムス・コロレド伯の宮廷に仕える一方でモーツァルト親子は何度もウィーン、パリ、ロンドン、およびイタリア各地に大旅行を行った。これは神童の演奏を披露したり、よりよい就職先を求めたりするためであったが、どこの宮廷でも就職活動に失敗する。
1781年、25歳のモーツァルトはザルツブルクを出てウィーンに定住。フリーの音楽家として演奏会、オペラの作曲、レッスン、楽譜の出版などで生計を立てた。ウィーンではピアニストとして人気を誇ったが、晩年までの数年間は収入が減り、借金を求める手紙が残されている。1791年、ウィーンでレクイエムの作曲中に35歳の若さで没した。
年譜
1756年 - (0歳) 1月27日、ザルツブルクに生まれる。
1759年 - (3歳) クラヴィーア(ピアノの前身)を弾き始める。
1761年 - (5歳) 最初の作曲を行う(『アンダンテ ハ長調 K.1a』)。
1762年 - (6歳)
1月、ミュンヘン旅行。
9月、ウィーン旅行(10月13日、シェーンブルン宮殿にてマリア・テレジア御前演奏。7歳のマリア・アントーニア(マリー・アントワネット)にプロポーズしたという)。
1763年〜1766年 - (7〜10歳) パリ・ロンドン旅行。
1767年〜1769年 - (11〜13歳) 第2回ウィーン旅行。オペラ『ラ・フィンタ・センプリーチェ』上演。
1769年〜1771年 - (13〜15歳) 第1回イタリア旅行。父と共にミラノ、ボローニャを経てローマへ。システィーナ礼拝堂では、門外不出の秘曲とされていたグレゴリオ・アレグリ(Gregorio Allegri)の9声部の『ミゼレーレ』を聴き、暗譜で書き記したという逸話が残されている。ナポリでは数十日に及ぶ滞在を楽しみ、当時大変な話題の発掘されてから間もない古代ローマ遺跡ポンペイを訪れている。このことを詳細に語る父親の手紙が残されている。また、1770年には自身初のオペラ『ポントの王 ミトリダーテ』を作曲し、同年12月26日に初演される。
1771年 - (15歳) 第2回イタリア旅行。セレナード『アルバのアスカニオ』をミラノで上演。
1772年〜1773年 - (16〜17歳) 第3回イタリア旅行。ミラノでオペラ『ルチオ・シッラ』上演。
1773年 - (17歳) 第3回ウィーン旅行。
1774年〜1775年 - (18〜19歳) 第4回ウィーン旅行。オペラ『偽りの女庭師』上演。
1777年 - (21歳) ザルツブルクでの職を辞しミュンヘン、マンハイムへ就職旅行したが成果無し。マンハイムでは、マンハイム楽派の影響を受ける。
1778年 - (22歳)
マンハイム→パリ旅行。アロイジア・ヴェーバーに恋愛。パリでの就職も不首尾に終わる。
7月3日、同行した母パリで死す。帰路ミュンヘンでアロイジアに失恋。
1779年 - (23歳) ザルツブルクに帰郷。ザルツブルク宮廷にオルガニストとして復帰。
1780年 - (24歳) オペラ『イドメネオ』の準備のためにミュンヘンに赴く。女帝マリア・テレジア崩御。
1781年 - (25歳)
3月、ザルツブルク大司教ヒエロニュムス・コロレドの命でミュンヘンからウィーンへ。
5月9日、コロレドとの衝突、解雇。そのままウィーンに定住を決意。
1782年 - (26歳)
7月、オペラ『後宮からの誘拐』をウィーンで初演。
8月3日、父の反対を押し切りコンスタンツェ・ヴェーバー(Constanze Weber)と結婚。彼女はかつて片思いの恋をしたアロイジアの妹で、『魔弾の射手』の作曲家カール・マリア・フォン・ヴェーバーの従姉である。
このころから自ら主催の演奏会用にピアノ協奏曲の作曲が相次ぐ。
1783年 - (27歳)
ザルツブルクに帰郷。『大ミサ曲ハ短調 K.427』(417a)を上演。
6月、長男誕生するもザルツブルク旅行中に死亡。
1784年 - (28歳)
第2子カール・トーマス・モーツァルト誕生。
フリーメイソンリーに入会(書類上では12月5日)。以後その思想に影響を受けたとみられる。
1785年 - (29歳)
弦楽四重奏曲集をハイドンに献呈(「ハイドン・セット」)。
2月、父・レオポルトがウィーン訪問。息子の演奏会が盛況なことを喜ぶ。レオポルトはハイドンから息子の才能について賛辞を受ける。