おおよそ紀元前201年から紀元前27年までの間には、法が時代の必要に合わせてより柔軟に発展していったことを見て取れる。古い形式的な「市民法」に加え、新しい分類の法が創られた。「名誉法」(法務官がこの新たな法体系創造の中心となったことと、法務官の地位が名誉職であったことにより、このように呼ばれる)がそれである。この新しい法が登場すると、古い形式主義は放棄されてゆき、「万民法」という新しいより柔軟な原理が採用された。
新たな必要に法を適応させてゆくという方法論は、法律実務や公職者、そして特に法務官にはすっかり定着した。法務官は立法者ではなく、布告 (magistratuum edicta) を発する場合にも、技術的には新しい法を創造したわけではなかった。しかし、実際には、法務官が判定した結果は法律上保護され(訴権の付与)、事実上新しい法規制の源となることもしばしばあった。後任の法務官は前任の法務官の布告に拘束されなかったが、前任者の布告が有用なものであることが明らかになれば、後任者もその布告を援用して判定を示していた。このようにして永続的な内容が創造され、布告から布告へと受け継がれていった (edictum traslatitium) 。
こうして、時代の流れを超えて、法務官法という新しい体系が登場し、市民法と併存しながら、これを補充し、修正していたのである。実際にも、有名なローマ法学者アミリウス・パピニアヌス( - 212年)は、法務官法を次のように定義した。「法務官法は、市民法を公共の利益のために補充し、あるいは修正するために、法務官によって導入された法である」 (Ius praetorium est quod praetores introduxerunt adiuvandi vel supplendi vel corrigendi iuris civilis gratia propter utilitatem publicam) 。結局、市民法と法務官法は市民法大全において融合する。
この時代の最初の250年間は、ローマ法とローマ法学が最高度に達し、完成をみた時期である。この時期の法は、「ローマ法の古典期」として論及されることが多い。この時期の法律家が文章と実践の両面で到達した成果が、ローマ法の独特の姿を形作っている。
法律家は様々な役目を果たした。彼らは民間の訴訟当事者の求めに応じて法的意見を述べた。彼らは裁判を運営することを任された公職者(その最も重要な者が法務官)に助言した。法務官は、その在任期間の最初に公布する布告において、その任務をいかに遂行するのか、及び特定の手続を運営する準則となるべき式文集を明らかにしたが、法律家は法務官のこの布告の起草に助力した。法律家の中には、自ら裁判部門や行政部門で高位に就く者もあった。
法律家は、あらゆる種類の法注釈書や取決めも産み出した。130年ころ、法律家サルウィウス・ユリアヌスは法務官布告の標準書式を起草し、これ以降の法務官は全てこれを用いた。この布告は、法務官が訴訟を許し、答弁を認めるあらゆる事例の詳細な説明をその内容としていた。そのため、この標準布告は、公式には法としての強制力を持たなかったけれども、包括的な法典にも似た機能を果たすことになった。そこに法的申立てを成功させるために必要な条件が示されていたからである。この布告はそれ故パウルスやドミティウス・ウルピアヌスのような後代の古典期法学者が法注釈書を拡充する際の基礎となった。
古典期前や古典期の法学者が発展させた新しい概念や法制度は枚挙にいとまがない。ここではそのうちいくつかを例として挙げる。
ローマ法学者は物を利用する法的権利(所有権)とそれを利用したり操作することができる事実上の能力(占有)とを明確に分離した。また、彼らは、法律上の義務の原因としての契約と不法行為との間の区別を見出した。
大陸法系の法典に規定がある契約の標準類型(売買、雇用契約、貸借、役務契約。日本の民法学では有名契約という。)とこれらの契約相互間の特徴付けはローマ法学によって進められた。
古典期の法律家ガイウス(160年ころ)は、あらゆる問題を「ペルソナ」(人)と「レス」(物)と「アクチオ」(訴権、訴訟)に区分し、この区分を基礎として私法の体系を発案した。この体系は何世紀もの間用いられた。その業績は、ウィリアム・ブラックストーンの『イングランド法注解』のような法学論文やナポレオン法典の制定にも影響を及ぼしている。日本の民法総則や商法において「人」「物」「行為」(ただし、商法には「物」はない)の順で条文が分類され並んでいるのもこの影響である。
3世紀中葉から、法文化の刷新が次々に進むような条件が揃わなくなり始めた。政治的・経済的状況が全般的に悪化した。皇帝は政治生命のあらゆる場面で親政の強化を目論み始めた。共和政体の特徴をいくらか留めていた元首政という政治制度も、君主政という絶対君主制に変容し始めた。法学や法を、絶対君主が設けた政治的目標を達成するための道具ではなく、科学とみなす法律家の存在は、新秩序にはうまく適合しなかった。著作はほとんど書かれなくなった。3世紀中葉以降の法学者で名前が知られている者は少ない。法学と法教育は帝国の東側である程度続いたが、帝国の西側では古典期の法の精妙な議論は軽視され、ついには忘れ去られた。古典期の法はいわゆる卑俗法に取って代わられた。古典期の法律家の著作はまだ知られていたものの、新しい状況に適するように書き換えられてしまった。
「市民法」 (Ius Civile) とは、元来、 Ius civile Quiritium と呼ばれ、ローマ市民に共通して適用される法の体系であったし、都市法務官 (Praetores Urbani) (単数形 Praetor Urbanus )も、市民が当事者になった紛争について裁判権を有する人々であった。
「万民法」 (Ius Gentium) とは、外国人同士の問題や外国人とローマ市民との間の取引に共通して適用される法の体系である。外事法務官 (Praetores Peregrini) (単数形 Praetor Peregrinus )は、市民と外国人が当事者になった紛争について裁判権を有する人々であった。
ローマの法律家の中には、さらに「自然法」 (Ius naturale) という類型を導入する者もいた。これは自然法 (natural law) (あらゆる人間に共通して適用されると考えられる法の体系)を包含する概念である。論者は、何故「万民法」は帝国内に住むあらゆる人に受け入れられているのかを考えた。その結論は、これらの法は合理的人間の行動規範に沿ったものであり、それ故に皆が従うのだというものであった。そこで、通常の人間の行動規範に沿ったあらゆる法を「自然法」と呼ぶことにしたのである。例えば、奴隷制は帝国全土で万民法の一部をなしていたが、それは、奴隷制が、合理的な人間の行動規範に必ずしも沿わないものであるにもかかわらず、当時知られていた世界ではどこででも事実として知られており、かつ、受け入れられていたからである。人々に他人のために強制的に労働させることは通常のことではない。したがって、奴隷制は「万民法」の一部ではあっても、「自然法」の一部ではないのである。
成文法 (Ius Scriptum) と不文法 (Ius Non Scriptum) は、文字通りにいえば、それぞれ書かれた法と書かれていない法をいう。実際には、両者の違いはその生成過程にあり、(生成後に)文字で書き留められたかどうかは必ずしも問題ではない。
「成文法」は、立法者が文章によって制定した法の総体である。こうした法は、ラテン語で leges (英語の "laws" )や plebiscita (英語の "plebiscites" 、日本語の「国民投票」であり、平民会の起源)と呼ばれた。ローマの法律家は、成文法に次のようなものを含めた。
公職者の布告 (magistratuum edicta)
元老院の結論 (Senatus consulta)
法律家の回答や学説 (responsa prudentium)
皇帝の宣言や信念 (principum placita)
不文法は、慣習となった実務から現れ、時代を超えて拘束力を有するようになった普遍的な法の総体である。大ざっぱにいえば、「この人が決めたことだから従う義務がある」というような特定の「この人」(これを「立法者」という。)がいないにもかかわらず、様々な実務家が繰り返しある規範を採用し、その規範に従う義務があるという共通認識が社会全体にもできたとき、その規範を「普遍的な法」 (common law) というわけである。
ius publicum は公法を意味し、 ius privatum は私法を意味する。公法はローマ国家の利益を保護するのに対して、私法は個人を保護すべきものである。