ius singulare(特別法)は、何らかの人やもの、あるいは法的関係に対して適用される、一般的な通例の法 (ius commune) とは異なる特別な法のことである(「特別」というのは、それが法制度の一般的な原理に対する例外であるからである)。その例として、遠征中に軍務についた人が書いた遺言に関する法がある。この場合、通常の環境下で市民が遺言を書く場合に要求される厳格な形式が免除されるのである。
詳細はローマ法における人民の権利
法制度におけるある人の位置を表現するために、ローマ人は status という表現を使うのが通例であった。人は、外国人とは異なるローマ市民 (status civitatis) であったり、奴隷とは異なり自由 (status libertatis) であったり、家父長 (pater familias) やその下の家人といったローマ人家族の一員 (status familiae) であったりしたわけである。
詳細はローマの訴訟
古代ローマには、イギリス公訴局のような公の起訴担当部局というものはなく、個々の市民が自ら、通常は資金的支援もないか、あってもごくわずかのまま、自ら訴えを提起しなければならなかった。しかし、政治家は、しばしば訴えを提起した。そうすることが公的奉仕であるかのように見えたからである。初期には、訴えの提起は、書面の起訴状ではなく、口頭で呼び出す方法によりなされていた。しかし、後に、訴えはしかるべき文書を提出すれば係属するものとされた。訴えが係属すると、裁判官が指名され、その訴えの判決が示された。
共和政時代やその後もローマの訴訟手続が官僚裁判官によって担われるようになるまでの間は、裁判官も通常は一人の私人であった(私人裁判官、 iudex privatus )。裁判官は男性のローマ市民に限られていた。当事者は指名された裁判官に同意するか、 album iudicum と呼ばれた名簿の中から裁判官を指名することができた。当事者双方が合意できる裁判官が見つかるまで名簿順に下がって行き、もし誰も合意できなければ名簿の一番下の裁判官を選ばなければならなかった。
重大な公益がかかっている訴えについては、5人の裁判官で法廷を構成することがあった。まず、当事者が7人を名簿から選び、次に、その7人の中から無作為で5人が選ばれた。彼らは審理員 (recuperatores) と呼ばれた。
この仕事は荷が重いと考えられていたため、訴えを裁判する法的義務は誰も負わなかった。しかし、裁判をする道徳的な義務はあり、これは「職務」 (officium) という言葉で知られていた。裁判官は訴訟を指揮するやり方について大幅な裁量権を有していた。裁判官はあらゆる証拠を考慮して、適当と思われる方法で判断を示した。裁判官は法律家でもなければ法的な技術も持たなかったので、訴えの技術的な側面について法律家に諮問することも多かったが、法律家の回答には拘束されなかった。訴訟が終結しても、裁判官にとって事案が明確になっていなければ、裁判官は、事案不明確を宣言して判決を拒否することもできた。また、判決が何らかの技術的な問題(申立ての種類など)によって左右されるときは、判決宣告までにいくら時間をかけても構わないとされていた。
その後、官僚裁判官が登場するようになると、こうした手続は姿を消し、いわゆる「特別審理」 (extra ordinem) 手続(別名 cognitry )に置き換わった。すべての事件が公職者裁判官の前で審理された。公職者裁判官は審理と判決をする義務があり、判決に対しては上級の公職者裁判官に控訴をすることができた。
東ローマ帝国においては、ユスティニアヌス法典が法実務の基礎となった。レオーン3世は、8世紀前半にエクロゲー (Ecloga) という新たな法典を公布した。9世紀には、バシレイオス1世とレオーン6世がユスティニアヌス法典中の勅法彙纂と学説彙纂を総合的にギリシャ語に翻訳させ、バシリカ法典として知られるようになった。ユスティニアヌス法典やバシリカ法典に記録されたローマ法は、東ローマ帝国の滅亡とオスマン帝国による征服の後でさえ、ギリシャ正教の法廷やギリシャにおいては法実務の基礎となり続けた。
西ヨーロッパでは、ユスティニアヌスの権威はイタリア半島やイベリア半島までしか及ばなかった。ゲルマン諸王は独自に法典を公布した。しかし、それらの中にも、先行する東ローマの法典の影響を確かに見て取ることができる。多くの事案で、かなり長い間、ゲルマン諸部族には彼ら独自の法典が適用される一方で、ローマ市民の末裔にはローマ法が適用され続けた。勅法彙纂と法学提要は、それ自体が西ヨーロッパでも知られていた(ただし、中世初期には法実務に対する影響力はわずかであった。)が、学説彙纂は何世紀もの間おおむね無視されていた。1070年ころ、イタリアで学説彙纂の写本が再発見された。これは主として注釈者が写本の行間に注釈を書いたり (glossa interlinearis) 、欄外に注釈を書いたり (glossa marginalis) して出版したものであった。この時から、古代ローマの法律文献を研究する学者が現れ、彼らが研究から学んだことを他の者に教え始めた。こうした研究の中心となったのはボローニャだった。ボローニャの法学校は次第にヨーロッパ最初の大学の一つへと発展していった。
ボローニャで(後世にはその他の多くの場所で)ローマ法を教えられた学生達は、ローマ法の多くの規範が、ヨーロッパ中で適用されていた慣習的な規範よりも、複雑な経済取引を規律するのに適していることに気付いた。このため、ローマ帝国の滅亡から何世紀も経った後に、ローマ法や、少なくともそこから借用した条項が、再び法実務に導入され始めた。多くの君主や諸侯がこの過程を活発に支援した。彼らは、大学の法学部で訓練を受けた法律家を顧問や裁判担当官として雇い入れ、例えば有名な Princeps legibus solutus est (主上は法に拘束されない)といった規則を通じて自らの利益を追求したのである。
中世においてローマ法が選好された理由はいくつかある。それは、ローマ法が、財産権の保護や、法主体及びその意思の対等性(特定の富裕者、大企業、権力者といった強者とそれ以外の弱者との間の契約であっても、強者の意思が弱者に優越するというものではないというイメージで捉えられたい。)を規定していたからでもあるし、ローマ法が遺言によって法主体が財産を随意に処分し得る可能性を規定していたからでもある。
16世紀中葉までに、再発見されたローマ法はほとんどのヨーロッパ諸国における法実務を支配するに至った。ローマ法が教会法やゲルマンの慣習、特に封建法の要素と混交された結果、ある法制度が出現した。この法制度は、大陸ヨーロッパの全域(及びスコットランド)に共通のものであり、ユス・コムーネ (Ius Commune) と呼ばれた。このユス・コムーネやこれに基礎をおく法制度は、通常、大陸法(英語圏の国では civil law )として言及される。
イングランドだけは、ローマ法の継受に参加しなかった。その理由の一つは、ローマ法が再発見された当時、イングランドの法制度がヨーロッパ大陸の法制度よりも進んでいたという事実である。そのため、ローマ法の実務的な先進性が、イングランドの実務家にとっては、ヨーロッパ大陸の法律家にとってほど明白なものではなかったのである。さらに、ローマ法が神聖ローマ帝国やカトリック教会、絶対主義を連想させるという事実が、イングランドにとってローマ法をますます受け入れ難いものとした。 この結果、イングランドの制度であるコモン・ローは、ローマ法を基礎とする大陸法と並立して発展していった。
とはいえ、ローマ法由来の概念もコモン・ローに入って来ている。特に19世紀初頭、イングランドの法律家や裁判官は意識的にヨーロッパ大陸の法律家や直接ローマ法から規則や発想を借用しようと努めた。
ローマ法を実際に適用する動きやヨーロッパ流のユス・コムーネの時代は、国家が法典化に乗り出した時に終わりを迎えた。1804年、フランス民法典が施行された。19世紀のうちに、多くのヨーロッパ諸国では、フランス法を模範として採用するか、自国固有の法典を起草するかのどちらかになった。ドイツでは、政治的状況のために、統一的な法典を作ることが不可能であった。17世紀から、ドイツでは、ローマ法が自国の(共通の)法により強い影響を受け、「パンデクテン(学説彙纂)の現代的慣用」 (usus modernus Pandectarum) と呼ばれた。ドイツの一部では、ドイツ民法典 (B?rgerliches Gesetzbuch, BGB) が1900年に施行されるまで、原則的には普通法たるローマ法が適用され続けた。