ローマ法
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ローマ法の晩年


東ヨーロッパのローマ法

東ローマ帝国においては、ユスティニアヌス法典が法実務の基礎となった。レオーン3世は、8世紀前半にエクロゲー (Ecloga) という新たな法典を公布した。9世紀には、バシレイオス1世レオーン6世がユスティニアヌス法典中の勅法彙纂と学説彙纂を総合的にギリシャ語に翻訳させ、バシリカ法典として知られるようになった。ユスティニアヌス法典やバシリカ法典に記録されたローマ法は、東ローマ帝国の滅亡とオスマン帝国による征服の後でさえ、ギリシャ正教の法廷やギリシャにおいては法実務の基礎となり続けた。


西ヨーロッパのローマ法

西ヨーロッパでは、ユスティニアヌスの権威はイタリア半島やイベリア半島までしか及ばなかった。ゲルマン諸王は独自に法典を公布した。しかし、それらの中にも、先行する東ローマの法典の影響を確かに見て取ることができる。多くの事案で、かなり長い間、ゲルマン諸部族には彼ら独自の法典が適用される一方で、ローマ市民の末裔にはローマ法が適用され続けた。勅法彙纂と法学提要は、それ自体が西ヨーロッパでも知られていた(ただし、中世初期には法実務に対する影響力はわずかであった。)が、学説彙纂は何世紀もの間おおむね無視されていた。1070年ころ、イタリアで学説彙纂の写本が再発見された。これは主として注釈者が写本の行間に注釈を書いたり (glossa interlinearis) 、欄外に注釈を書いたり (glossa marginalis) して出版したものであった。この時から、古代ローマの法律文献を研究する学者が現れ、彼らが研究から学んだことを他の者に教え始めた。こうした研究の中心となったのはボローニャだった。ボローニャの法学校は次第にヨーロッパ最初の大学の一つへと発展していった。

ボローニャで(後世にはその他の多くの場所で)ローマ法を教えられた学生達は、ローマ法の多くの規範が、ヨーロッパ中で適用されていた慣習的な規範よりも、複雑な経済取引を規律するのに適していることに気付いた。このため、ローマ帝国の滅亡から何世紀も経った後に、ローマ法や、少なくともそこから借用した条項が、再び法実務に導入され始めた。多くの君主や諸侯がこの過程を活発に支援した。彼らは、大学の法学部で訓練を受けた法律家を顧問や裁判担当官として雇い入れ、例えば有名な Princeps legibus solutus est (主上は法に拘束されない)といった規則を通じて自らの利益を追求したのである。

中世においてローマ法が選好された理由はいくつかある。それは、ローマ法が、財産権の保護や、法主体及びその意思の対等性(特定の富裕者、大企業、権力者といった強者とそれ以外の弱者との間の契約であっても、強者の意思が弱者に優越するというものではないというイメージで捉えられたい。)を規定していたからでもあるし、ローマ法が遺言によって法主体が財産を随意に処分し得る可能性を規定していたからでもある。

16世紀中葉までに、再発見されたローマ法はほとんどのヨーロッパ諸国における法実務を支配するに至った。ローマ法が教会法やゲルマンの慣習、特に封建法の要素と混交された結果、ある法制度が出現した。この法制度は、大陸ヨーロッパの全域(及びスコットランド)に共通のものであり、ユス・コムーネ (Ius Commune) と呼ばれた。このユス・コムーネやこれに基礎をおく法制度は、通常、大陸法(英語圏の国では civil law )として言及される。

イングランドだけは、ローマ法の継受に参加しなかった。その理由の一つは、ローマ法が再発見された当時、イングランドの法制度がヨーロッパ大陸の法制度よりも進んでいたという事実である。そのため、ローマ法の実務的な先進性が、イングランドの実務家にとっては、ヨーロッパ大陸の法律家にとってほど明白なものではなかったのである。さらに、ローマ法が神聖ローマ帝国カトリック教会絶対主義を連想させるという事実が、イングランドにとってローマ法をますます受け入れ難いものとした。 この結果、イングランドの制度であるコモン・ローは、ローマ法を基礎とする大陸法と並立して発展していった。

とはいえ、ローマ法由来の概念もコモン・ローに入って来ている。特に19世紀初頭、イングランドの法律家や裁判官は意識的にヨーロッパ大陸の法律家や直接ローマ法から規則や発想を借用しようと努めた。

ローマ法を実際に適用する動きやヨーロッパ流のユス・コムーネの時代は、国家が法典化に乗り出した時に終わりを迎えた。1804年フランス民法典が施行された。19世紀のうちに、多くのヨーロッパ諸国では、フランス法を模範として採用するか、自国固有の法典を起草するかのどちらかになった。ドイツでは、政治的状況のために、統一的な法典を作ることが不可能であった。17世紀から、ドイツでは、ローマ法が自国の(共通の)法により強い影響を受け、「パンデクテン(学説彙纂)の現代的慣用」 (usus modernus Pandectarum) と呼ばれた。ドイツの一部では、ドイツ民法典 (Burgerliches Gesetzbuch, BGB) が1900年に施行されるまで、原則的には普通法たるローマ法が適用され続けた。主に大陸法を継受した日本の法制度も、間接的にではあるが、ローマ法の強い影響を受けている。


ローマ法の今日

今日、ローマ法はもはや法実務においては適用されておらず、南アフリカサンマリノのような一部の国の法制度が、今もなお旧来のユス・コムーネに基礎を置いているのみである。しかしながら、法実務が(近代的な)法典に基礎を置いているとしても、多くの規範がローマ法に由来している。ローマ法の伝統と完全に断絶している法典は存在しない。むしろ、ローマ法の規定をより時代に密着した制度として適合させ、その国の言葉で表現したのが近代的な法典である、とすらいえよう。そのために、ローマ法の知識は今日の法制度を理解する上で不可欠なものである。それゆえ、大陸法圏においては、しばしばローマ法が法学部生の必修科目とされるのである。

欧州連合の加盟国内は私法の統一を目指して動き始めている。古いユス・コムーネは、それが各国の法実務共通の基礎であり、しかも多くの地域的変容を許容してきたものであるが故に、多くの点で模範となるように思われる。


外部リンク

A very good collection of resources maintained by professor Ernest Metzger(英語)

The Roman Law Library by Professor Yves Lassard and Alexandr Koptev(英語)


関連項目

法学

法史学

西洋法制史

十二表法

SPQR

ラテン語

ギリシア語

カテゴリ: 歴史上の法令 | ローマ法

更新日時:2008年9月23日(火)03:08
取得日時:2008/10/01 15:38


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:Mamenoki