1960年代以降の日本は経済大国であると同時に、1980年代中頃までは東アジアで唯一安定した民主主義政治が確立された国家でもあった。そして冷戦下で自由主義陣営と社会主義陣営の二極化が進むと、超大国ソ連の喉元に刺さった小骨のような日本の戦略的な重要性はますます高まった。レーガン政権が日本をアメリカの安全保障上欠かすことのできない「パートナー」として重視したのも当然の成り行きだった。中曾根首相とはヤスと言われてレーガン大統領はロンと言われて「ロン・ヤス」とあだ名されてお互い交流を結んだ。
そうした背景から、レーガンは現職のアメリカ大統領としては最多の三度にわたり日本を公式訪問している[13]。
最初の訪日では昭和天皇や中曾根総理と会談したほか、キャンプ・デービッドへ招待された答礼として中曾根が、11月11日に東京都西多摩郡日の出町の別荘「日の出山荘」に招き、蔦子夫人手作りの昼食を共にしたことが大きな話題となった[14]。日の出山荘を訪れる前日には、明治神宮で流鏑馬を見学し、その際「自分もやりたい」と言って周囲を困らせていた。
1983年9月に発生した大韓航空機撃墜事件など、冷戦下の北東アジアで発生したいくつかの事件では日本と共同歩調を取ったが、日本との貿易摩擦に対しては一貫して強硬な姿勢をとり続けた。
内閣レーガンと最初の閣僚(1981年2月4日)レーガンと最後の閣僚(1989年1月11日)
職名氏名在任
大統領ロナルド・レーガン1981-1989
副大統領ジョージ・H・W・ブッシュ1981-1989
国務長官アレクサンダー・ヘイグ1981-1982
ジョージ・シュルツ1982-1989
財務長官ドナルド・リーガン1981-1985
ジェームズ・ベイカー1985-1988
ニコラス・ブレイディ1988-1989
国防長官キャスパー・ワインバーガー1981-1987
フランク・カルーチ1987-1989
司法長官ウィリアム・スミス1981-1985
エドウィン・ミース1985-1988
リチャード・ソーンバーグ1988-1989
内務長官ジェームズ・ワット1981-1983
ウィリアム・クラーク1983-1985
ドナルド・ホーデル1985-1989
商務長官マルコム・バルドリッジ1981-1987
C・ウィリアム・ヴェリティ1987-1989
労働長官レイモンド・ドノヴァン1981-1985
ウィリアム・ブロック1985-1987
アン・マクラフリン1987-1989
農務長官ジョン・ラスリング・ブロック1981-1986
リチャード・エドモンド・リング1986-1989
保健福祉長官リチャード・シュウェイカー1981-1983
マーガレット・ヘッケラー1983-1985
オーティス・ボーウェン1985-1989
教育長官テリル・ベル1981-1984
ウィリアム・ベネット1985-1988
ラウロ・カヴァゾス1988-1989
住宅都市開発長官サミュエル・ピアース1981-1989
運輸長官ドリュー・ルイス1981-1982
エリザベス・ドール1983-1987
ジェームズ・バーンレイ1987-1989
エネルギー長官ジェームズ・エドワーズ1981-1982
ドナルド・ホーデル1982-1985
ジョン・ヘリントン1985-1989
1985年夏、レーガンの大腸にできていたポリープが生体組織検査の結果悪性であることが判明すると、レーガンは直ちにポリープ切除手術を受けることになった。手術は全身麻酔を必要とするという医師団の診断を受けて、大統領府では1947年の大統領継承法と1967年の合衆国憲法修正第25条の規定に依り、大統領権限の一時的移譲を初めて行うこと決定した。手術は7月13日の朝方から始まり、ブッシュ副大統領がこの間約8時間にわたって大統領権限を代行している。
1987年1月5日には前立腺癌の摘出手術も受けているが、この際は局所麻酔で済ませることができたため権限移譲は行われなかった。しかし当時レーガンは76歳に迫る高齢で、「任期をあと2年も残して果たしてこの先大丈夫なのか」という懸念が全米に広がった。
しかしその後は、耳が遠くなる[15]、受け答えが鈍くなるなど、老化に特有の現象にこそ見舞われたものの、レーガンの健康状態は至って良好だった。1989年1月20日に77歳11ヵ月という大統領としては史上最高齢でホワイトハウスを後にしたときには、多くのメディアが「これなら三期目でもいけたかもしれない」などという賛辞を贈るほどだった。
1989年に2期8年の任期を全うしたレーガンは、高い支持率を保ったまま、同じく共和党選出であるジョージ・ブッシュにその座を譲りホワイトハウスを後にした。