ロナルド・レーガン
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保守主義者

1950年代アメリカの反共・反ソ気運はレーガンの政治的なイメージを増強した。レーガンはフランクリン・ルーズベルトと彼のニューディール政策を支持して、リベラル派として政治活動を始めたが、のちに保守主義者に転じた。レーガンは、映画俳優組合 (SAG) の委員長の立場でありながら上院議員ジョセフ・マッカーシーリチャード・ニクソン率いる下院非米活動委員会に協力し、「ハリウッドの赤狩り」(=マッカーシズム)に手を貸した。彼は多くの反共主義者と異なりアメリカ共産党の非合法化に強く反対した。政府と取引が多い電機メーカーのゼネラル・エレクトリック社に雇われたのは、反共産主義のスピーチをラジオ放送上で行ったからであると言われる。

その後行われた1964年の大統領選挙では、レーガンは小さな政府を唱えるアリゾナ州選出の上院議員バリー・ゴールドウォーターの熱烈な支持者だった。


カリフォルニア州知事

レーガンの自由主義者としての顔は、カリフォルニア州知事時代に行った政策にも如実に現れている。例えば、州議会を「バイクに乗る際、ヘルメットの着用を義務付ける」という法案が通過した際、レーガンは州知事権限でこれを取り消した。その理由は「バイクに乗る者は、バイクに乗るという行為がどれだけ危険かわかって乗っているはずだ。ならば、ヘルメットの着用などということは個人に任せるべきであって、それに州政府が関与する必要はない」というものだった。また当時激戦を極めていたベトナム戦争に関して「ベトナムを焼き払って駐車場にすればいい」と発言して批判を浴びたこともある。


大統領選

レーガンは1968年に大統領選に初出馬したが、ニクソン元副大統領相手に予備選の段階で票が伸びず敗退した。1976年に再出馬、この時は現職のフォード大統領に肉薄する勢いで善戦したが、夏の全国共和党大会における代議員投票で惜敗した[3]。満を持して臨んだ続く1980年の大統領選では難なく党大統領候補指名を獲得した。

選挙活動は、民主党選出で現職の大統領でもあるジミー・カーター政権下で起きたイラン大使館人質事件への対応で特徴づけられた。海外のマスコミは、選挙後まで人質を拘束させ続けるためにレーガン陣営が秘密の取り引きを結んだと非難した。

最終的にレーガンは、1980年に行われた大統領選挙で現職のカーターを破って当選した。その後ほとんどのアナリストは、カーターのイラン大使館人質事件解決に対する無力さと優柔不断さが、カーターの敗北およびレーガンの勝利に大きな役割を果たしたと考えた。


リーガン → レーガン

「Reagan」の英語本来の発音は「リーガン」が近い。レーガン本人もハリウッド俳優時代から1980年の大統領予備選のあたりまでは「ロナルド・リーガン」と言っていた。ところが共和党から党大統領候補の指名を受けると、レーガンのルーツはアイルランド系で、アイルランド語では語頭の「Rea」を「リー」ではなく「レイ」と発音することから、これを機に以後は「ロナルド・レーガン」と名乗ることにすると発表した。選挙中にこのような発表をする大統領候補はかつてなかったため、この件は意外性をもって報道された。しかし多民族国家アメリカでは民族の伝統の継承や自己の歴史への誇りなどが尊ばれることから[4]、このレーガンの姿勢は彼に対する好感度の増加につながった。

もう一つの理由が、レーガン陣営で財政問題の顧問をしていた元メリルリンチ会長のドナルド・リーガン (Donald Regan) である。リーガンはレーガンの側近のような存在で、レーガンが当選すればリーガンが財務長官に指名されるのは確実視されていた。姓の発音が同じで、しかも名の方も頭の一文字が違うだけ[5]というこの二つの名前はいかにも紛らわしいので、アメリカの報道は渡りに船とばかりに、こぞってレーガン候補の方を「レーガン」とし、リーガン顧問以下その他大勢は従来通りの「リーガン」に据え置くことにした[6]

日本では、大統領選を経て就任式を過ぎてからしばらくしても「リーガン」と「レーガン」が混在していた。春頃になるとアメリカ大使館から日本の報道機関に対して、適切な表記への変更を要望する書簡が送付されている。外国大使館からのこうした要望は前代未聞で、この件は日本でもちょっとしたニュースになった。


第40代大統領就任式(中央はナンシー夫人)

1981年1月21日に大統領に就任したレーガンは、1984年の再選をかけた大統領選挙でも民主党候補のモンデール副大統領に空前の地滑り的大勝を果たして1989年まで在任、アイゼンハウアー(在任1953?61年)以来久々に二期8年の任期を満了した大統領となった。


暗殺未遂事件

レーガン政権の船出は暗殺未遂事件に見舞われるという衝撃的なものだった。

大統領に就任して69日後の1981年3月30日、講演先のワシントンD.C.ヒルトンホテルを裏口から退出した際に、レーガンはジョン・ヒンクリーによって狙撃される。3秒間で6発の弾丸が発射され、レーガンの脇にいた大統領報道官のジェームズ・ブレイディ、シークレットサービスのティモシー・マッカーシー、ワシントン市警警官のトーマス・デラハンティーの三人が被弾してその場に倒れた[7]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:Mamenoki