ロナルド・レーガン
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人種差別問題政策

人種差別問題の解消に対しては積極的な態度を取り続け、1988年に、第2次世界大戦中の日系人の強制収容に対して謝罪と1人当たり20,000ドルの損害賠償を行っている。また、マーティン・ルーサー・キング・ジュニア牧師の誕生日が国の祝日となったのもレーガン政権においてである(1983年)。


エイズ対策

1981年に症例報告されたAIDS(後天性免疫不全症候群)に関して、この新しい感染病の「大流行」が多くの医療専門家から警告されていたにも関わらず有効な対策を打たなかったため「封じ込め」に失敗した。その結果わずか10年程度で爆発的に感染者が増加し大きな社会問題となった。


労組対策

1981年8月5日に、レーガンは、職場復帰命令を無視した1万1359人の航空管制官を解雇した。皮肉にもPATCO(航空管制官組合)は9ヵ月前に選挙でレーガンを支持した少数の組合のうちの1つだった。


外交


冷戦の終結ベルリンの壁の前で演説するレーガン(1987年)アメリカで政治家になる条件に、「見栄えのする容姿」と、大衆の好感度を引き出す「目には見えない魅力」がある。俳優出身のレーガンにはこの双方を満たして余りあるものがあった。静かな語り口ながら、率直で分りやすく、誰をも納得させてしまう話術は、「グレート・コミュニケーター(偉大なる伝達者)」というレーガンのあだ名に凝縮されている。1983年にソ連のことを「悪の帝国」と言い切ったときも、1987年にベルリンの壁の前で数万人のベルリン市民に向かって「ゴルバチョフさん、この壁を壊しなさい![11]」とアピールしたときも、これが単なる演説の一節に終わらず、社会の変革を引き起こす要因の一つとなるほど人々の脳裏に深く刻みこまれたのも、こうしたレーガンの天賦の才があったとがその大きな要因の一つだった。初会合から打ち解けた雰囲気となったジュネーブ会談(1985年11月19日)中距離核戦力全廃条約 (INF条約)に調印する米ソ両首脳(1987年12月8日、ホワイトハウス

止むことない軍備増強を続けた結果、ソ連の軍事力は1980年代初頭までにアメリカのそれを凌駕するまでに巨大化していた。それまでアメリカの軍備は、数の上ではソ連に及ばないものの、技術面ではソ連を寄せ付けない先端技術を保持し続けており、これがソ連に対する「質の脅威」であり得たが、1980年代におけるソ連の科学技術の進歩はこの両者の開きをかつてないほど狭いものにしていた。

その槍玉にあげられたのが、デタントだった。レーガン政権は、米ソ両超大国の力の均衡を維持することに役立っただけで、冷戦そのものの解決にはまったくならなかったばかりか、いたずらにこれを長期化させる原因になっていたデタントを否定し、ソ連を「悪の帝国」と名指しで非難。替わりに「力による平和」と呼ばれる一連の外交戦略でソ連と真っ向から対抗する道を選んだ。その概要は、
国防予算を大幅に増額してスターウォーズ計画を一方的に推進する

ソ連はこれに追いつこうとするあまりより一層の無理を強いられる

その結果アフガニスタン侵攻の泥沼化でただでさえ逼迫しているソ連の国家財政は破綻し、社会保障制度が麻痺する

ソ連の国民はそんな共産主義政権を見限りソビエト連邦は崩壊する

というシナリオだった。

果たしてその読み通り、早くも1980年代中頃になるとソ連の財政赤字は肥大化し、財政は危機的状況に陥った。また1985年にゴルバチョフが書記長に就任すると、「グラスノスチ」によりソ連の危機的状況が西側にも明らかとなり、アメリカはソ連から核兵力・通常兵力・対東欧諸国政策のすべてにおいて大幅な譲歩を引き出すことに成功した。(→ 詳細は「中距離核戦力全廃条約」の項を参照)

こうしたソ連の態度軟化を変化の兆しと見たレーガンは、自らも強硬な外交路線を修正、ゴルバチョフに対してはこれまでの改革を評価するとともに、より一層の改革を行うことを促した。 

レーガンはゴルバチョフと、ジュネーヴ(1985年11月)、レイキャビク(1986年10月)、ワシントンD.C.(1987年12月)、モスクワ(1988年6月)と四度にわたって首脳会談を行っている。主な議題はいずれも軍縮と東欧問題だったが、一回目は米ソ首脳が6年半ぶりに会談すること自体に意義があり、二回目は物別れに終わったもののゴルバチョフが交渉に値する人物だという確証を得ることができた。そもそもレーガンは三回目のワシントン会談でゴルバチョフを訪米させることにかけていた。終わりの見えない不況と、あってなきが如き社会保障制度に喘ぐソ連の国民が、好景気に沸くアメリカ社会の実態を間近に垣間見る機会があれば、彼らが現在の体制に疑問を抱き、やがて不満が爆発するであろうことは十分に予見できたのである。そして、この自国民による「内圧」がアメリカによる「外圧」よりもはるかに強い力となって、実際にゴルバチョフ政権とソビエト共産党を根底から揺さぶり始めるのに、そう時間はかからなかった。

翌年モスクワを訪問したレーガンを、ソ連のメディアはまるでハリウッドスターのような扱いで好意的に迎えた。あるジャーナリストから、まだソビエトのことを「悪の帝国」と考えているかと質問されたレーガンは、はっきり「いいえ」と答え、「あれは別の時、別の時代のことを指した言葉です[12]」とつけ加えることを忘れなかった。そんなレーガンに、ゴルバチョフはモスクワ大学で自由貿易市場についての特別講義をすることまで依頼している。

後に回想録『An American Life』の中で、レーガンは当時ソ連が取りつつあった新しい方向を楽観的に見ていたこと、膝を割った会話ができるまで気心知れる盟友にまでなったゴルバチョフに対しては極めて親密な感情を抱いていたこと、そして大規模な改革を急速に断行するゴルバチョフ政権の帰趨や本人の生命を真剣に心配していたことなどを記している。

こうして一度動き始めた改革の流れは止まることを知らず、日を追って、しかも誰もが予想し得なかった速度で、その勢いを増していった。「レーガン・ドクトリン」によって地道に支援されてきた東欧の反共産主義運動は、モスクワの屋台骨が揺らぎ始めると、もう怖いもの知らずだった。1989年8月、ハンガリー政府当局が約1000人の東ドイツ国民を自国経由でオーストリアに脱出する手助けをするという「ピクニック事件」が起きたのを皮切りに、11月にはドイツでベルリンの壁が崩壊し、チェコスロバキアではビロード革命が共産党による一党独裁を廃止、12月にはブルガリアの共産党政権が崩壊し、ルーマニアではチャウシェスク独裁政権を血祭りにあげるなど、東欧諸国は雪崩を打って民主化を果たし、ここに冷戦は事実上終結した。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:Smilegreen