「Reagan」の英語本来の発音は「リーガン」が近い。レーガン本人もハリウッド俳優時代から1980年の大統領予備選のあたりまでは「ロナルド・リーガン」と言っていた。ところが共和党から党大統領候補の指名を受けると、レーガンのルーツはアイルランド系で、アイルランド語では語頭の「Rea」を「リー」ではなく「レイ」と発音することから、これを機に以後は「ロナルド・レーガン」と名乗ることにすると発表した。選挙中にこのような発表をする大統領候補はかつてなかったため、この件は意外性をもって報道された。しかし多民族国家アメリカでは民族の伝統の継承や自己の歴史への誇りなどが尊ばれることから[4]、このレーガンの姿勢は彼に対する好感度の増加につながった。
もう一つの理由が、レーガン陣営で財政問題の顧問をしていた元メリルリンチ会長のドナルド・リーガン (Donald Regan) である。リーガンはレーガンの側近のような存在で、レーガンが当選すればリーガンが財務長官に指名されるのは確実視されていた。姓の発音が同じで、しかも名の方も頭の一文字が違うだけ[5]というこの二つの名前はいかにも紛らわしいので、アメリカの報道は渡りに船とばかりに、こぞってレーガン候補の方を「レーガン」とし、リーガン顧問以下その他大勢は従来通りの「リーガン」に据え置くことにした[6]。
日本では、大統領選を経て就任式を過ぎてからしばらくしても「リーガン」と「レーガン」が混在していた。春頃になるとアメリカ大使館から日本の報道機関に対して、適切な表記への変更を要望する書簡が送付されている。外国大使館からのこうした要望は前代未聞で、この件は日本でもちょっとしたニュースになった。
1981年1月21日に大統領に就任したレーガンは、1984年の再選をかけた大統領選挙でも民主党候補のモンデール前副大統領に空前の地滑り的大勝を果たして1989年まで在任、アイゼンハウアー(在任1953?61年)以来久々に二期8年の任期を満了した大統領となった。
レーガン政権の船出は暗殺未遂事件に見舞われるという衝撃的なものだった。
大統領に就任して69日後の1981年3月30日、講演先のワシントンD.C.のヒルトンホテルを裏口から退出した際に、レーガンはジョン・ヒンクリーによって狙撃される。3秒間で6発の弾丸が発射され、レーガンの脇にいた大統領報道官のジェームズ・ブレイディ、シークレットサービスのティモシー・マッカーシー、ワシントン市警警官のトーマス・デラハンティーの三人が被弾してその場に倒れた[7]。暗殺未遂事件の決定的瞬間被弾して倒れる報道官とシークレットサービス、ヒンクリーを押さえ込む人垣、大統領が押し込まれた専用車の扉はまだ半開のままである。
レーガンは別のシークレットサービスのジェリー・パーによって大統領専用車に押し込まれたが、そのとき胸に痛みが走った。しかし出血が認められなかったので、車に押し込まれたときの勢いでどこか痛めたのだろうと思ったという。ところがその後パーと話をしているうちに咳き込み、泡立った鮮血を吐いた。これを見たパーは、大統領は被弾しており、しかも銃弾は肺に穴を開けているととっさに判断、運転手に最寄りの病院へ大至急直行するよう指示した。実際に弾丸は大統領の心臓をかすめて肺の奥深くで止まり、かなりの内出血を起していた。救急病棟に到着したころには呼吸も困難な状態で、この直後にレーガンは倒れ伏せてしまう。まさにパーの機転がなければ命に関わる重傷だった[8]。
それでもレーガンの意識はしっかりしており、周囲の心配をよそに弾丸摘出の緊急手術の前には医師たちに向かって「あなた方がみな共和党員だといいんだがねえ」と軽口を叩くほどだった。執刀外科医は民主党員だったが、「大統領、今日一日われわれはみんな共和党員です」と返答してレーガンを喜ばせている。手術は全身麻酔を必要とする大掛りなものだったが[9]、レーガンは70歳の高齢者としては驚異的なスピードで回復、2?3週間後には退院して執務に戻っている。
レーガンは入院中にも妻のナンシーに「ぼくはしゃがみ忘れたんだよ (Honey, I forgot to duck.)」と軽口をたたくなど陽気な一面を見せ続けた。このセリフは1926年、ボクシングヘビー級のタイトル戦でチャンピオンのジャック・デンプシーが挑戦者ジーン・タニーに不意の敗北を喫したときに妻に向かって言った有名な「言い訳」を引用したもの。その後も、演説中に会場の飾りつけ風船が破裂し、場内が一時騒然となったとき「奴は、またしくじった」と一言述べ、会場を爆笑と大拍手に包んだ。
大統領選挙戦の頃から見せていたレーガンのこうした機智や茶目っ気は全米を魅了して、史上最大の地滑り的勝利をレーガンにもたらすことに貢献したが、これはこの後8年間の政権を通じて変わることがなかった。政策の失敗やスキャンダルなどでいくらホワイトハウスが叩かれても、レーガンの比較的高い支持率は決して急落することがなかったのも、こうしたレーガンの「憎めない人柄」に拠るところがきわめて大きかったのである。
なおこの事件を受けて制定されたのが、民間人の銃器購入に際し、購入者の適性を確認する「ブレイディ法」(重症を負った報道官に由来)である[10]。
レーガンは就任後、それまでの需要中心の政策ではなく、供給力強化を目的としたレーガノミックスと呼ばれる一連の経済政策を発表した。(→ 詳細は「レーガノミックス」の項を参照)
レーガンの「麻薬との戦争 (War on Drugs)」政策は、中毒治療のための予算を減らす一方で麻薬犯罪者の投獄を推し進めた。これは、アメリカの刑務所人口の劇的な増加をもたらした。評論家は「この政策が実際にはアメリカ社会にとって大きな財政負担と人的コストを増やす一方で、麻薬の流通あるいは路上犯罪をへらすことにほとんど役立たない」と非難した。
大統領在職中のこの政策、および社会計画のための様々な予算のカットにより、レーガンは貧しいマイノリティの要求に無関心なものと一部の左派批評家によって見なされた。しかしながらいくつかの調査によると、この政策を採り続けた結果、レーガン在職中にアメリカ人の不法な麻薬使用は明らかに減少したとしており、支持者たちはこの政策は成功だったとしている。