一期目は「レーガノミックス」に代表される大幅減税と積極的財政政策でアメリカに長期の好景気をもたらし[1]、就任当初から、前任者ジミー・カーター時代のイラン革命や、中米ニカラグアでのサンディニスタ政権成立などで、当該国の親米独裁政権を失ったことを批判して失地を挽回するため世界各地で強硬策を採り、ベトナム戦争以来となる本格的な海外への武力侵攻をグレナダに対して行うなど、強いアメリカを印象づける出来事が目立った。高い支持率を維持した結果、1984年の大統領選では対立候補の地元をのぞく49州を獲得するという地滑り的大勝で再選された。しかし二期目はイラン・コントラ事件に代表される数々の政治スキャンダルに揉まれ、政権の体質に対する各方面からの厳しい批判が目立った。
外交ではデタントを否定して、ソビエト連邦を「悪の帝国」と名指しで非難、「力による平和」戦略でソ連と共産主義陣営に対抗する一方、「レーガン・ドクトリン」を打ち出して世界各地の反共主義運動を支援した。前者はソ連の崩壊、後者はベルリンの壁崩壊に代表される東側諸国の自主的民主化を招き、結果として冷戦の平和的終結が実現した。
退任から5年後、自らアルツハイマー症であることを告白して公の場から完全に姿を消した。
2004年6月5日、長い闘病の末、アメリカ合衆国カリフォルニア州ロサンゼルス市の私邸で死去した(93歳没)。
イリノイ州タンピコで、父ジョン・レーガンと母ネル・ウィルソンの間の2人の息子の2番目として生まれた。レーガン家はアイルランド系の家系である。数年間にわたり町から町へ引っ越した後、1920年に一家はイリノイ州ディクソンに定住した。11歳のときにレーガンはディクソンのディサイプル教会で洗礼を受けている。
1924年にディクソンのディクソン高校に入学した。1926年、ディクソンの北5kmにあるローウェル公園に沿って流れるロックリバーでのライフガードが初めての仕事だった。7年間の夏季勤務中、77人を溺死から救ったとのことである。 後年レーガンは、「(救助した)彼らのうち9人は私に有難うを言わなかった」とジョークを話したという。
イリノイ州のユーレカ大学に1928年に入学し、経済学と社会学を専攻し、1932年に卒業した。
ハリウッド俳優ラジオアナウンサー時代『Cowboy From Brooklyn』の予告編より(1938年)
幼い頃より話術と演技に才能があり、後にそれをさらに発展させ、シカゴの大リーグチーム・シカゴ・カブスのラジオアナウンサーになった。ティッカー(ニュースなどを紙テープに印字する自動受信機)の紙テープからわかる試合の輪郭だけをもとに、自らの想像と話し方の才能をつかって実況放送を行った。1934年のセントルイス・カーディナルス戦において、カブスの9回の攻撃時に放送回線が故障したが、機器が回復するまで架空の実況放送を即興で滑らかに行った。
レーガンはハリウッドで準トップ級の主役男優として成功した経歴を持っている。映画初出演は『Love is On the Air』(1937年)、1939年末までに19本の映画に出演した。1940年には『Knute Rockne All American』で、大学フットボールのスター選手で25歳で早世したジョージ・ギップ(愛称:ギッパー)の役を演じ、そこから彼はギッパーという愛称を得た。レーガン本人によると、自己最高の作品は『Kings Row』(1942年)であるという。そのほかの代表作には、『Hellcats of the Navy』『This Is the Army』『Bedtime for Bonzo』などがある。一連の映画出演を顕彰してロサンゼルスのハリウッド大通り6374番のハリウッド・ウォーク・オブ・フェームには、彼の名前が刻まれた星形の敷石がある。
1935年にアメリカ合衆国陸軍の予備役将校になった。第二次世界大戦時には、1941年12月8日の日本海軍による真珠湾攻撃の後に招集され、陸軍航空隊の中の第一映画部隊に配属され、訓練用・教育用の映画やプロパガンダ映画の制作・ナレーションに携わった。終戦までハリウッドに残り大尉まで昇進した。