1613年にロマノフ朝が成立すると、大貴族と農奴制に支えられ、封建色の強い帝国の発展が始まった。18世紀、ピョートル1世(大帝)は急速な西欧化・近代化政策を強行し、新首都サンクトペテルブルクの建設(1703)、大北方戦争(1700〜1721)での勝利を経てロシア帝国の基盤を築いた。彼の時から正式に皇帝の称号を使用し、西欧諸国からも認められた。エカチェリーナ2世はオスマン帝国との露土戦争(1768年-1774年、1787年-1792年)に勝利すると共に、ポーランド分割に参加し、欧州での影響力を増加させた。大黒屋光太夫が彼女に謁見したことにより、アダム・ラクスマンが日本に派遣され日露関係史が実質的に始まった。
19世紀になるとロシアはナポレオン戦争に参戦し、1812年にはナポレオン・ボナパルト指揮のフランス軍に侵攻されたが、大損害を負いながらこれを撃退し、戦後はフィンランドやポーランド立憲王国を支配して、神聖同盟の一員としてウィーン体制を維持する欧州の大国となった。国内でのデカブリストの乱やポーランド反乱などの自由主義・民族主義運動は厳しく弾圧された。
19世紀後半からは不凍港獲得を悲願として南下政策を推し進めていき、これによってトルコ等周辺国と戦争を引き起こし、イギリスとの対立が激化していく。しかしクリミア戦争ではイギリス・フランス連合軍に敗北し、帝国の工業や政治、軍事全般の後進性が明確になった。1861年に皇帝アレクサンドル2世は農奴解放令を発布し、近代的改革への道を開いたが、農村改革や工業化のテンポは遅く、ナロードニキによる農村啓蒙運動も政府の弾圧を受けた。政治的自由化の遅れへの不満は無政府主義者による皇帝暗殺まで発展した。この時期、極東ではアロー戦争の仲介料として沿海州を清から獲得しウラジオストクを建設した。
19世紀末には、ロシアはそれまでのドイツ・オーストリアとの三帝同盟からフランスとの露仏同盟に外交の軸足を移し、汎スラヴ主義によるバルカン半島での南下を極東での南下政策と平行させた。フランス資本の参加によりシベリア鉄道の建設が行われている。1905年に血の日曜日事件 (1905年)が発生し、日露戦争で敗れると、ロシアはイギリスと英露協商、日本と日露協約を締結し、三国協商に立ってドイツやオーストリアと対立した。国内ではドゥーマ(国会)の開設やピョートル・ストルイピンによる改革が行われたが、皇帝ニコライ2世の消極的姿勢もあって改革は頓挫し、帝国の弱体化は急速に進行した。その中で、都市部の労働者を中心に社会主義運動が高揚した。
第一次世界大戦では連合国の一員としてドイツ・オーストリアと開戦したが、敗北を重ねて領土深くまで侵攻された。第一次世界大戦中の1917年に起こったロシア革命でロマノフ王朝は倒された。革命後、ウラジーミル・レーニンはポーランド・バルト三国・フィンランドの独立承認で帝国の西方領土の一部を手放した後、ボリシェヴィキ(共産党)を率いて内戦に勝利し、1922年にボリシェヴィキの一党独裁による全体主義体制を国是とするソビエト連邦を建国した。旧ロシア帝国領の大部分を引き継いだソ連を構成する4共和国(その後15まで増加)のうち、ロシア人が多数派を占める大部分の地域はロシア・ソビエト連邦社会主義共和国となった。ソビエト連邦とロシア共和国の首都はレニングラードと改称されたサンクトペテルブルクからモスクワへと約200年ぶりに戻された。ロシア共和国内に居住する少数民族については、その人口数などに応じて自治共和国、自治州、民族管区などが設定され、事実上ロシア共和国とは異なる統治体制をとった。
ソビエト体制でのロシア共和国は他の連邦加盟共和国と同格とされたが、面積・人口とも他の共和国を圧倒していたロシアでは事実上連邦政府と一体となった統治が行われた。ソビエト連邦共産党内に「ロシア共産党」は創設されず、第二次世界大戦後の国際連合でもウクライナや白ロシア(現在のベラルーシ)と異なり単独での加盟が認められなかった。
1930年代に世界恐慌により多くの資本主義国が不況に苦しむ中、ソビエト連邦はその影響を受けずに高い経済成長を達成したが、その経済成長は政治犯や思想犯を中心とした強制労働による事実上の奴隷制度に支えられたものであり、その富は共産党の上層部に集中して配分された。