正式名称は、Российская Федерация(Ross?jskaja Feder?cija; ロシーイスカヤ・フェデラーツィヤ、ラスィーイスカヤ・フィヂラーツィヤ)。略称、РФ。通称、Россия(Ross?ja; ロシーヤ、ラスィーヤ)。
キリル文字のラテン文字転写、ロシア語のカタカナ表記にはいずれも多数の方式、表記があり、ここにあげたものは一例である(本記事の以下の転写も同じ)。
日本語表記は、ロシア連邦。通称ロシア。以前はよりロシア語名に近いロシヤと書かれることが少なくなかったが、1980年代頃からギリシャ語風の(つまり他のヨーロッパ諸国の名称に合わせた)ロシアという表記が完全に主流となった。日本語の漢字表記は露西亜で、略称は露[2]。江戸時代にはをろしやと呼ばれていた。これは、当時の日本語では「ら行」を語頭に持ってくることができなかったためである。19世紀の江戸時代から明治時代にかけては魯西亜という表記もなされ、1855年に両国間で初めて結ばれた条約は「日本国魯西亜国通好条約」という名称になった。
ロシアの国名は、現在のロシア北西部とウクライナ、ベラルーシにあたるルーシという地域をギリシア語の発音によって生まれた名前である。この名は、ルーシの北東の辺境地に起こったモスクワ大公国が周辺の地域を統合し、“ルーシの遺産の争い”をめぐってリトアニア大公国と対立していた16世紀のイヴァン4世(雷帝)の頃に使われ始め、18世紀初頭のピョートル1世(大帝)がロシア皇帝(インペラートル)と称したことにより正式の国名となった。
ロシア帝国期以前は、ルーシのギリシャ語風名称としてのロシアという語はかつてのルーシ全域を指し、ロシア北西部を「大ロシア」(大ルーシ)、西ウクライナあるいは中・南部ウクライナを「小ロシア」(小ルーシ、「ルーシの中心地」という意味)と呼んだ。ベラルーシも「白ロシア」(白ルーシ)という意味の地方名である。しかし、小国の乱立したルーシ地域では早くからウクライナやベラルーシの人々とロシアの人々との間には異なった民族意識が醸成されていった。結果、これらの国々はロシア帝国の崩壊後別々の国家として独立し、再統合されたソ連邦下でも別々の共和国とされ、ソ連邦の解体に際しては別々に独立することとなった。別の観点から言うと、ロシアはキエフ・ルーシ時代、その大公権に属するモスクワ公国という小さな一部分に過ぎなかったが、ジョチ・ウルスの時代に征服者モンゴルとうまく協調したこと(税金をすすんでモンゴルに収めたこと等)や、隣国を破って旧キエフ・ルーシの国土の大半を影響下に収めたこと、帝政時代の極東への侵略と拡張により大国となった。その権力の正統性を説明するため、モスクワはビザンツ帝国から「ローマ」の威信も受け継いだという学説も考案された。こうしたことから、モスクワ大公国は「偉大なルーシ」の権力を継ぐ国家であると自称するようになり、なおかつヨーロッパ国家の一員であるという考えから公式にギリシャ風の「ロシア」を国号として用いるようになった。
詳細はロシアの歴史を参照
ロシアとウクライナ・ベラルーシの原型である中世のルーシ地域は、862年にノルマン人リューリクがノヴゴロドの公となり、その一族が東スラヴ人の居住地域に支配を広げていく過程で形成されたと年代記に記録される。当初のルーシの中心は、現在はウクライナの首都であるキエフであり、現在のロシアの中心である北東ルーシはむしろ辺境で、モスクワの街もまだ歴史には登場していなかった。支配者層を含めてスラヴ化したキエフ大公国は、9世紀に東ローマ帝国(ビザンツ帝国)から東西教会分裂以後に正教会となる東方のキリスト教とギリシャ=ビザンツ文化を受容し、独特の文化を育んだが、13世紀初頭にモンゴルによって征服され、キプチャク・ハン国の支配下に入った。
数多くいるルーシ諸公のひとりに過ぎなかったモスクワ公は、モンゴル支配下でルーシ諸公がハンに納める貢納を取りまとめる役を請け負うことで次第に実力をつけ、15世紀にキプチャク・ハン国の支配を実質的に脱してルーシの統一を押し進めた。モスクワ大公はイヴァン3世のときツァーリ(皇帝)の称号を名乗り、その支配領域はロシア帝国へと発展してゆく。ただし、国内の生産力は低く、西欧諸国からは異質の存在と見られていた。16世紀にイヴァン4世(雷帝)が近代化と皇帝集権化、シベリア進出などの領土拡大を進めたが、彼の死後は大貴族の抗争で国内が大混乱に陥り、ポーランドによるモスクワ占領まで起こった。