14世紀・15世紀はロシア正教会の修道院の歴史において重要な運動が起きた世紀である。先述したキエフの洞窟修道院にみられる通りそれまでのルーシにも修道院は存在していたが、モスクワ対トヴェーリの抗争が終息に向かい平和が訪れたルーシで、中部・北部ロシアの原生林に多くの荒野修道院が建設されていった。これはビザンツ帝国(東ローマ帝国)で起きていたヘシュカスム[9]が修道士のネットワークを通じてもたらされた刺激の結果でもあった。ロシアの広大な原生林での苦行・労働・祈りを通した修行は、中東の正教会の修道士が行っていた砂漠での修行と似通ったものとして捉えられた[10]。至聖三者セルギイ大修道院のパノラマ
1345年、のちに至聖三者セルギイ大修道院に発展する修道院がラドネジのセルギイにより創始された。当初は小さな木造教会を有するだけの修道院だったが、こうした荒野修道院運動の主要な担い手として瞬く間に修道院の規模は拡大。至聖三者セルギイ大修道院からだけでも8つの都市修道院、27の荒野修道院が生まれている。至聖三者セルギイ大修道院は後々、帝政ロシア・現代ロシアに至るまで、ロシア正教会最大級の修道院として大きな影響力を有する事となる。
ソロヴェツキー諸島の修道院群も、1429年にサヴァーチイにより、その基礎となる僧庵が建てられた事に出発している。サヴァーチイの死後、ノヴゴロド出身のゾシマが白海修道院を建設し、修道院群発展の道筋をつけた。のちのソ連時代に強制収容所に転用された事もある(後述)ほどその環境は過酷なものであるところに、当時の荒野修道院の目指した土地の有り様が垣間見える。
自給自足を原則とした農業共同体としての修道院は、ルーシの精神面・物質面に多大な影響を及ぼした。アンドレイ・ルブリョフのイコン「至聖三者」
精神面ではモンゴルによる恐怖政治と相次ぐ戦乱にあえいでいた人心の安定に大きく寄与した。また当時の修道士達の足跡は、後代、ロシア正教会のみに留まらない正教会全体に大きな影響を及ぼすものとなった。当時活躍したイコン画家であり修道士でもあったアンドレイ・ルブリョフのイコン「至聖三者」は、正教会のみならずカトリック教会でも使用される事がある。
物質面では無人の原生林を開拓して国土開発を行った。14世紀に至るまで戦乱の為に行われる事の無かった西欧の農業技術(輪作)の導入を行う主体ともなり、ルーシの農業技術の改良にも貢献する事となった。
トヴェーリとモスクワの抗争、そしてリトアニア大公国とモスクワの抗争を通じ、「キエフ及び全ルーシの府主教」を誰が保護下に置くのか、そして「キエフ及び全ルーシの府主教」が誰を保護者として選ぶのかは重大な問題であり続けた。府主教座の掌握は、全ルーシ支配の正当性をもたらすものだったからである。イワン・カリターは1328年、ウラジーミルからモスクワに府主教を移動させる事に成功し、モスクワによる全ルーシ支配の正当性を得る礎を築いた。
キエフ府主教の北東ルーシへの遷座に伴い、ある種の置き捨てられた感を持った南西ルーシ諸公と、南西ルーシに自らの影響下にある府主教座を置くことで南西ルーシの正教徒への支配権確立の正当化を画策するリトアニア大公国[11]は、新たな府主教座の設置をコンスタンディヌーポリに要求していく事になった。こうした要求には本来、全ルーシを管轄する者は名義通りキエフに所在しなければならず、ウラジーミルにとどまらないモスクワへの遷座は認められないという主張を伴っていた。これはもっともな理屈ではあったが、ウラジーミルに遷座した上にモスクワへの事実上の遷座を行った事には確かに疑問が大きかったとはいえ既にキエフ府主教が居る以上、キエフに重複する府主教座を設ける事が教会法違反であった事も確かであった。ましてモンゴル系汗国やカトリック諸国からの軍事的脅威を避けるためという止むを得ない事情によって北東ルーシへ拠点を移した府主教座にとって、このような論は当然認められるものではなく、第二の府主教座設置はルーシ分裂の契機とも成り得る危険を孕むものであった。
結局、ハールィチ府主教座、リトアニア府主教座などが一時的に成立はするものの、それらの府主教座は終局的には閉鎖されていく。この間、コンスタンディヌーポリ総主教庁は効率的な事態打開が出来なかった。
14世紀のコンスタンディヌーポリ総主教庁の対応ラドネジの聖セルギイのイコン。その生涯が回りに描かれている。
13世紀まではルーシの一体性を崩す事を避けるために効果的な対策を打ってきたコンスタンディヌーポリ総主教庁も、14世紀には政策の一貫性を欠き、ルーシに関する裁定は玉虫色のものとなっていき、場合によってはリトアニアとの妥協も行う事があった。コンスタンディヌーポリ総主教庁の保護者たるパレオロゴス朝東ローマ帝国がこの時期には完全に衰退しており、皇帝の教会政策に関する意思にもコンスタンディヌーポリ教会自身の意思にも、統一性が欠けていた。ルーシに関して正常な意思決定能力を発揮し一貫性ある政策を行うのは当時の東ローマ帝国と総主教庁には荷が重かったと言えよう。
こうしたコンスタンディヌーポリ総主教庁の態度と事情が、ルーシにおける抗争の様相を複雑化させていく一つの要因ともなった。これはルーシの正教徒達の間にコンスタンディヌーポリ総主教庁の紛争調停能力への疑義を持たせる結果となった。
このような状況下で14世紀末にコンスタンディヌーポリ総主教庁から派遣されてきた府主教キプリヤンは親リトアニアの姿勢を鮮明にし、ルーシ侵略を目論むリトアニア大公国のことは反イスラームの同盟国として扱ったのに対し、ルーシに対しては赤子に対する教師であるかのように振る舞い、政治的抗争に関与するルーシの正教会指導者の過ちを厳しく叱責した。
こうした叱責自体は正論ではあったが、教会にしかもはや統一的指導者と保護者を見出せないルーシの苦悩を顧みずに無神経な叱責を名高いラドネジのセルギイにまで加え、リトアニア大公国との友好的態度をとる府主教キプリヤンの言動は、先述したように今までルーシの紛争調停に無為無策であるどころか時には却ってリトアニアを利する決定を下してきたコンスタンディヌーポリ総主教庁の過去と相俟って、「『帝都コンスタンディヌーポリへの援軍の見返りとしての東西教会合同を推進する』というエゴの為には、コンスタンディヌーポリはルーシをどうとでも扱うのではないか」との印象すらもルーシの正教徒に与え、ルーシにおけるコンスタンディヌーポリ総主教庁の権威と声望を(あくまで相対的にだが)低下させることとなった。
ただし文人としての才能に豊かであった府主教キプリヤンは、教会文化面では多大な貢献をルーシに対して行った。年代記や教会著作の執筆・編纂を行い、祈祷書や教父著作などのギリシャ語文献のスラヴ語翻訳も行っていった。ルーシの正教徒たちも謙虚に旺盛な学習意欲によってよくこれに応え、主に先述の荒野修道院がこうしたビザンティン文化受容の担い手となった。