ロシア正教会
出会い最短記録!!
B分で即アポHも可

[Wikipedia|▼Menu]
□記事を途中から表示しています
[最初から表示]


クリコヴォの戦いと、モスクワ大公国の台頭ウラジーミルの生神女」(イコン)。1131年にコンスタンティノープルからキエフに贈られた。1155年ウラジーミルに移され、ヴァシーリー1世により1395年にはモスクワに移された。ロシア正教会で最も有名なイコンのひとつであり、これを複製したイコンは膨大な数に上る。

1380年、モスクワ大公ドミトリイ・ドンスコイ率いるルーシ諸公連合軍は、クリコヴォの戦いキプチャク・ハン国のママイ・ハーン軍を破った。この戦いの前にラドネジのセルギイは大公ドミトリイ・ドンスコイに対して祝福を与えている。一般にはこの1380年を以てルーシは「タタールのくびき」から解放されたとされる事が多い。

依然としてキプチャク・ハン国ないしその後継汗国クリム・ハン国など)の軍事的脅威はその後も15世紀までルーシの諸都市が幾度も略奪に遭っている事からも判る通り持続しており、17世紀末に至るまで軍事的脅威は残存していた。モスクワの人々が「ウラジーミルの生神女」のイコンを用いて祈った事でティムールの軍がモスクワから退いていったとされる伝承からも、騎馬民族系の諸国家がルーシ諸公にとり依然として脅威であった事が判る。

しかしクリコヴォの戦いが一つのきっかけとはなり、モスクワ大公国が名実ともにルーシの第一人者となっていく事となる。ただしこの頃のルーシの統合はまだ緩やかなものであった。


フィレンツェ公会議に対する対応

1439年フィリオクェ問題をはじめとする教義の違いが争点となったものの、フィレンツェ公会議カトリック教会と、正教会の指導者であるコンスタンディヌーポリ総主教および東ローマ帝国皇帝ヨハネス8世パレオロゴスとの間で、教会の分裂の再統合の合意がなされた。しかし、コンスタンティノープル市民や大貴族(ルカス・ノタラス大公がその筆頭)も含めた東ローマ帝国の正教信者達から東西教会合同決議に対する猛反発が起こり、結局東西教会の合同は実現出来なかった。背景には第4回十字軍に決定的となった反西方教会感情があるとみられる。

この時、ロシア正教信者も同様に猛反発を起こし、ロシア正教会の代表として公会議に出席し、再統合に賛成したギリシャ人のモスクワ府主教イシドール(ギリシャ語名イシドロス。在任1436-1441年)は、モスクワに帰任するとモスクワ大公ヴァシーリー2世によって直ちに捕らえられ、府主教職を解かれて追放された。西方教会諸国から軍事的圧迫を受け続けてきたという点ではビザンツ帝国もルーシも同様だったのであり、反西方教会感情が広く正教会諸国に共有されていた事実が示されている。

イシドールはローマに逃れ、ローマ・カトリック教会の枢機卿に就任した。のちに、実際の管轄は伴っておらずあくまで名誉的・名義上のものであったが、コンスタンティノポリス総大司教・キプロス大司教にも任じられる。

当時の東ローマ帝国はオスマン帝国によって滅亡寸前にまで追い込まていたために西欧の救援を求めて東西教会の統合を進めたが、当時のモスクワ大公国にとってそのような妥協をする必要はなかったのであり、民衆のレベルだけでなくモスクワ大公という世俗君主までもが実力行使に出るほどにまで、対応がより先鋭的になる事情があったと言えよう。


独立ロシア正教会の成立

イシドールの追放後、モスクワ大公ヴァシーリー2世は1448年、ロシア主教会議を招集し、新しい府主教イオナ(1448-1461)を着座させた。その後、ロシア正教会はコンスタンディヌーポリ総主教庁から自治独立権を有するようになった。ただしこの時は、他の正教会から自治独立を承認されてはおらず、事実上の自治独立という形であった。ヴァシーリー2世は幾度もコンスタンディヌーポリ総主教庁にロシア正教会の独立を認めるよう辞を低くして要請していたが、この直後、東ローマ帝国は滅亡し(1453年)、オスマン・トルコの支配下に置かれたコンスタンディヌーポリ総主教庁にはそのような重要な決定を下せるような余裕は無かった。


モスクワ大公国の拡大ロシアの「双頭の鷲

1467年、ヴァシーリー2世の長子であるイヴァン3世は東ローマ帝国最後の皇帝コンスタンティノス11世の姪ソフィア(ゾエ・パレオロギナ)を妻として迎え、ローマ帝国の継承者であることを宣言した。

その後、イヴァン3世により、豊かな毛皮を産する後背地を抱えるノヴゴロド1478年)と貿易の活発であったプスコフが征服された(正式な併合は後年)。同時期、ヤロスラヴリ(1463年)、ロストフ(1474年)、トヴェーリ(1485年)なども次々に併合され、これにより独自の豊富な財源を手に入れたモスクワ大公はルーシ諸公・貴族の中で専制君主として振舞う実力を獲得した。こうした国力を反映し、生神女就寝大聖堂(ウスペンスキー大聖堂)がモスクワクレムリン内に建設された。生神女就寝大聖堂
(ウスペンスキー大聖堂)

イヴァン3世は初めて「ツァーリ」(皇帝)の称号を名乗った君主であり、双頭の鷲紋章がモスクワ大公の紋章に加えられた。

モスクワ大公の征服活動の中でノヴゴロド大主教は明確にモスクワ府主教の下に位置付けられる事となり、カトリック国リトアニアとモスクワの狭間で揺れ動いてきたプスコフの正教会世界への編入がほぼ確定され、大半の東スラヴの正教会世界のヒエラルキーが整理された。

この時代、プスコフ近郊の修道士フィロフェイが、書簡中で「モスクワは第三のローマである」と言及している。


■可愛い娘探セル■
■18歳以上「入口」■

[次ページ]
[オプション/リンク一覧]
[記事の検索]
[おまかせ表示]
[トップページ]
[ニュースをチェック!]
[列車運行情報]
Size:133 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:Mamenoki