伝承によれば、ルーシの正教会伝道の歴史は12使徒のひとりであるアンドレイにさかのぼるとされるが、本格的な正教会伝道の試みが歴史的に確認出来るのはコンスタンディヌーポリ総主教フォティオス(在位:858-861? 878-886)によるものである。また954年にはキエフ大公ウラジーミル1世の祖母であるオリガがキリスト教(正教会)[2]の洗礼を受け、ルーシにおける正教のさきがけとなった。
まとまった形を伴ったルーシの正教会の歴史は、988年、キエフ大公ウラジーミル1世が、東ローマ帝国皇帝バシレイオス2世の妹アンナを妃とし、公式に東ローマ帝国(ビザンティン帝国)の国教である正教会の洗礼を受けた時から始まるとされ、この年がロシア正教会の歴史の基点とされる事が多い[3]。府主教座は当時ルーシ[4]の中心都市であり、キエフ大公国の首都であったキエフにおかれた[5]。
発足当初から長期にわたってキエフ府主教はコンスタンディヌーポリ総主教庁の監督下にあり、コンスタンディヌーポリ総主教がキエフ府主教を任命した。当初は府主教も東ローマ帝国(ビザンティン帝国)から派遣されたギリシャ人だった。なお初期の府主教の称号は単に「キエフ府主教」であり、「キエフ及び全ルーシの府主教」の称号は後代のものである(後述)[6]。
キエフには後にキエフ・ペチェルスク・ラーヴラに成長する洞窟修道院が、アトス山の修道院から出身地ルーシに戻ったアントニーによって1051年にキエフに創始された。
キエフ大公国は10世紀末から11世紀前半にかけてウラジーミル聖公とヤロスラフ賢公の時に最盛期を迎えたが、その後は10以上の諸公国による割拠の態を示したばかりか、トルコ系騎馬民族ポロヴェツ人による介入をも招き、ルーシは混沌とした有様となった。
13世紀にはルーシの動揺は決定的となる。度重なる内紛によりルーシの統合は破壊された。東からはポロヴェツ人を打ち破ったモンゴルが襲来し、西からはローマ教皇の意を受けた「北の十字軍」[7]の侵略を受けた。バトゥに率いられた東からのモンゴル軍は、1237年にはウラジーミルを陥落させ、1240年にはポーランド・ハンガリーへの遠征の途中でキエフを陥落させた。西からのルーシに対する「北の十字軍」としては、スウェーデン軍がノヴゴロドの奪取を試み(1240年)、ドイツ騎士修道会はプスコフを占領した。アレクサンドル・ネフスキー
これら外憂のうち、西方からのスウェーデン軍・ドイツ騎士修道会は、いずれもウラジーミル大公アレクサンドル・ネフスキーによって撃退された(対ドイツ騎士修道会の戦闘としては1242年の「氷上の戦い」)。だがモンゴルに対しては、アレクサンドル・ネフスキーをはじめとし、ルーシ諸公は基本的に恭順の姿勢を示していく事になる。以降15世紀中葉に至るまで、ルーシはモンゴルの影響下に置かれる事となる。
モンゴルの支配は苛烈なものではあったが、ローマカトリックへの改宗を強制する「十字軍」とは違い信仰面においては比較的寛容だった為、キエフ府主教も基本的にはルーシ諸公の「西方諸国に断固とした姿勢で臨み、東のモンゴルには恭順する」という外交政策を支持していた。現実的問題として、当時のルーシ諸公には極めて強力なモンゴルの軍事力に対して徹底抗戦するだけの実力も統一性も無く、如何にモンゴルの支配が過酷なものであったとしても他に選択肢は無かったというのが実情であった。ルーシ諸公の内紛とモンゴルの介入は断続的に続き、ルーシは絶えず動揺にさらされていく。
経済面に於いては、十字軍による地中海交易の復興によるドニエプル川交易の衰退も相俟って、キエフはルーシの有力な地域としての地位を喪う。以後、北部のノヴゴロド公国、北東のウラジーミル・スーズダリ大公国、南西のハールィチ・ヴォルィーニ大公国などが、ルーシの主要構成員となっていった。
このような外憂内患を受けた結果が、キエフ府主教座の移転である。
キエフ及び全ルーシの府主教座の北東ルーシへの移転ウラジーミルの生神女就寝大聖堂。セルゲイ・プロクジン=ゴルスキーによって1912年に撮影されたカラー写真。
ルーシ全域が混乱していた1249年、南西ルーシのハールィチ・ヴォルィーニ公ダニールはローマ教皇インノケンティウス4世から王号を受け、塗油と戴冠を受けた。こうしたダニールの動きに、コンスタンディヌーポリ総主教は脅威を感じる。キエフ府主教は先述の通りコンスタンディヌーポリ総主教の影響下にあり、コンスタンディヌーポリ総主教の利害の下に動いていた。