リヒャルト・ワーグナー
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6 その他の舞台作品

6.1 オペラ

6.2 劇付随音楽

6.3 その他


7 その他の作品

7.1 交響曲

7.2 管弦楽曲

7.3 室内楽曲

7.4 ピアノ曲

7.5 声楽曲

7.6 合唱曲

7.7 歌曲

7.8 編曲


8 参考音源

9 ヴァグネリアン

10 関連項目

11 外部リンク

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生涯

1813年、ドイツのライプツィヒに生まれる。父カール・ヴァーグナーは下級官吏であったが、フランス語に堪能であったため、当時ザクセンに駐屯していたナポレオン率いるフランス軍との通訳としてたびたび駆り出された。カールはリヒャルトの生後まもなく死に、母ヨハンナはカールと親交があったルートヴィヒ・ガイヤー(ユダヤ人・実父説もあり)と再婚した。幼児から音楽に親しみ、特に一家とも親交があった作曲家ウェーバーから強い影響を受ける。ウェーバーは若きヴァーグナーにとって憧れの人で、生涯敬意を払った数少ない人物であった。15歳のころベートーヴェンに感動し、音楽家を志した。それと同時に劇作にも関心を持ち、のちに彼独自の芸術を生み出す原動力となる。10代から盛んにピアノ作品を作曲しており、初期ロマン派の語法の積極的な摂取が幼いながらも認められる。当初は絶対音楽の作曲家になろうと交響曲にも関心を示したが、すぐに放棄した。1832年交響曲ハ長調は現存する。

時を同じくして、最初の歌劇『婚礼』を作曲した。1833年にヴュルツブルク市立歌劇場の合唱指揮者となった。その後指揮者に飽き足らず歌劇作曲家を目指したが芽が出ず、貧困と借金に苦しんだ。1836年女優のミンナ・プラーナー(Minna Planer)と結婚した。彼女とはのちに次第に不和となった。このころ「恋愛禁制」を作曲し、ケーニヒスベルクリガ(当時の帝政ロシア、現在のラトビア)で劇場指揮者をしながら転々とした。1839年パリに移ったが相変わらず貧しかった。このパリ時代には小説『ベートーヴェン詣で』、『パリ客死』を書き、またのちに有名となる歌劇『最後の護民官リエンツィ』、『さまよえるオランダ人』を書いた。しかし、パリでヴァーグナーが認められることはなく、ヴァーグナーはフランスに悪印象を抱くようになる。

失意の内、1842年ドイツに帰り、ドレスデンで上記2歌劇を上演してようやく注目された。翌年ザクセン王国宮廷劇場指揮者に任命された。1844年にはイギリスで客死したウェーバーの遺骨をドレスデンへ移葬する式典の演出を担当した。葬送行進曲とウェーバーを讃える合唱曲を作詞作曲し、多才を発揮した。1845年には『タンホイザー』、1848年には『ローエングリン』を作曲し、好評を博した。

1849年ドレスデンで起こったドイツ三月革命の革命運動に参加。当地に来ていたロシアの革命家のバクーニンの影響下に入る(ジークフリートのモデルはバクーニンと言われている)。マルクスの友人である社会主義者のゲオルク・ヘルヴェークとも親交を結ぶ。しかし運動は失敗したため全国で指名手配され、リストを頼りスイスへ逃れ、数年間を過ごす。この亡命中にも数々の作品を生み出す。

彼独自の「総合芸術論」に関する論文数編を書き、「楽劇」の理論を創り上げた。たとえば、匿名で『音楽におけるユダヤ性』を書いてメンデルスゾーンマイアベーアらを金銭づくのユダヤ人だから真の芸術創造はできないとして非難し、この反ユダヤ的思想は、ヒトラーがワグネリアンであったことと相まって、はるか後にナチスに利用されることとなる。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:Mamenoki