リディアはホメロスの詩には「メイオン人の地」として知られ、ヒュデ市を中心として興ったと伝えられる。ヒュデ市は首都サルディス(リディア語:スファルト、アッシリア語:サバルダ)のアクロポリスの名前、あるいは旧市の別名と言われる[1]。リディアの興起は、東隣の大国フリギアと西のギリシア世界との間に位置するという交易上の優位性と、領内で金が産した事が大きな要因であった。
ヘロドトスの記録によれば、リディアではまずアテュスの子リュドスから始まるアティス王朝があり、「リディア」と言う国名はこのリュドスに由来し、それ以前のリディア人はマイオニア人と呼ばれていたという。その後神意によってヘラクレスと奴隷女を祖とするという一族(以下、ヘラクレス家)のアグロンがサルディスの王となり、以後22代、505年間にわたりヘラクレス朝がリディアを統治した[2]。
このヘラクレス家の最後の王であるカンダウレスは、自分の妻をあらゆる女の中で最も美しいと信じており、それを他人に自慢しようとした。そしてメルムナス家のダスキュロスの子ギュゲスに妻の自慢をしたが、ギュゲスが信じようとしないように見えたので、妻の寝所に忍びこんでその裸体を見るようギュゲスに強要した。ギュゲスは拒否しきれず指示通り覗き見を行ったが、寝所から出るところを妻に見つかってしまった。妻はギュゲスの除き見が夫であるカンダウレスの指示によるものである事を察し、夫への復讐を誓った。そして妻はギュゲスを呼び出し、カンダウレスを暗殺して自分とともにリディアを支配することを指示した。ギュゲスは躊躇したが、妻は彼に対して覗き見を行った罪を問われて死ぬか、自分とともに国を支配するかと脅した。そのためギュゲスはカンダウレス暗殺を実行し、カンダウレスの妻を自らの妃としてリディアの王となった[3]。
カンダウレスの殺害とギュゲスによる簒奪が周囲に知れるとリディア人達はこれに反対して武装蜂起を行ったが、ギュゲスは神託が自分の王位を認めたならばギュゲスがリディア王となること、そうでない時は王位をヘラクレス家に返還することを提案して武装蜂起側と合意した。そして神託の結果ギュゲスの王位が認められたのでギュゲスの一族に王位が移ったという[4]。これをメルムナス朝と呼ぶ。
以上がヘロドトスが『歴史』の冒頭に乗せている初期のリディアの歴史である。極めて伝説的であるが、初期リディアについての殆ど唯一のまとまった記録であるため、必ず参照されるものである。
ヘロドトスによればギュゲス王は、フリギアのミダス王以後デルフォイに奉納した最初の外国人であり、38年間の治世の間にミレトスなどイオニアのギリシア人都市を攻撃したが、他に特筆すべき業績は無いとして記述を終えている[5]。
このギュゲス王はアッシリアの王アッシュールバニパルが残した年代記、『ラッサム円筒刻文』に登場することから実在が確実視されている。それよればアッシュールバニパルの治世第3年目(前666年頃?)にルッディ王グッグ(即ちリディア王ギュゲス)から使者があり、彼の王国にギミライ(キンメリア人)の侵入があったことを伝えてきた。アッシリアの支援によってギュゲスがキンメリア人に勝ち、捕らえたキンメリア人の族長2名を貢物とともにアッシリアに送った。
しかしギュゲスはこの勝利によって自信を持ちアッシリアへの貢納を打ち切ったばかりか、アッシリアと敵対していたエジプトの王プシャミルキ(プサメティコス1世)と同盟を結んだので、アッシュールバニパルは逆にキンメリア人と同盟を結んでリディアを征服させた。そして敗死したギュゲスの子が王位を継承すると、彼は父親の「悪事」を謝罪して再びアッシリアに跪いて服従を誓った[6]。
以上がアッシリアのリディアに関する記録である。このキンメリア人によるリディア征服はヘロドトスの記録にも記述があり、彼はギュゲスの子アルデュスの時代にアクロポリスを除いてサルディス市全域がキンメリア人に占領されたと伝えている。ただしアッシリアとの同盟については言及が無く、キンメリア人の侵入はスキタイ人によってキンメリア人が元の土地を追われたためであるとしている[7]。この時代のアナトリアにおけるキンメリア人の移動はかなり大規模なもので、同時期にウラルトゥ王国やフリギアもその攻撃に晒されており、ウラルトゥは滅亡、フリギアも首都ゴルディオンを破壊され、エフェソスやマグネシア等の都市や、シリア地方などでも侵略が行われた記録がある。
アルデュスの後、その子サディアッテス、ついでアリュアッテスが王位を継いだ。アリュアッテスはその治世の間にキンメリア人を駆逐し、スミルナを占領するなどして勢力を拡張した。またミレトスへも攻撃を行っており、その戦争中に行われたリメネイオンの戦いとマイアンドロス河畔の戦いによってミレトス人に大損害を与えたと伝えられる[8]。
また東方からは新バビロニアと共同でアッシリアを滅ぼしたメディア王国がその余勢を駆ってリディア王国に侵入したが、戦闘中に発生した日食(前585年5月26日)に両軍が恐れおののいたためにハリュス川を国境とする合意を結んで休戦した。
アリュアッテスの跡を継いだのがクロイソスであった。彼は様々な理由をつけてエーゲ海東岸のギリシア人都市を攻撃してほぼ全域を征服した。これによってリュキアを除くアナトリア半島西部の殆どの地域がリディア王国の支配下に入る事になった。
クロイソスはイオニア人をはじめ、各地のギリシア都市国家と密接に関わったらしく、エーゲ海島嶼部のギリシア人都市との艦隊建造に関わる交渉や、アテナイ人ソロンとの対話、フリギア王家の末裔というアドラストスとの交流、クロイソスによるデルフォイへの奉納など多岐にわたる説話がヘロドトスによって伝えられている[9]。
クロイソスの時代、リディア王国は軍事的にも経済的にも富強を極めたが、アケメネス朝のキュロス2世が東方でメディア王国を滅ぼすとクロイソスはこれに憤り、新バビロニアのナボニドゥスやエジプトのイアフメス2世、スパルタ等と同盟を結んでアケメネス朝の支配するカッパドキアに侵攻した。
クロイソスの攻撃を知ったキュロス2世もエクバタナから軍を進め、前548年5月に両軍はプテリアで最初の戦闘を行った。この戦いで両軍とも多大な損害を出したが勝敗が付かず、日没とともに引き上げた。翌日に戦闘が行われなかったため、クロイソスはサルディスまで引き上げると、今年中の戦闘は無い事を予想[10]して一旦傭兵を解散した。そしてエジプト、バビロニア、スパルタに来援を要請し、翌年に再度の攻勢をかける計画を立てた。
しかしキュロス2世はクロイソスの意表をついて冬のうちに進軍する作戦をたて、前548年のうちにサルディスに到達した。予想外の攻撃を受けたクロイソスであったが、手元に残っていたリディア兵と、エジプトから借りた重装歩兵を中心とする軍を率いて迎撃に向かい、サルディス近郊のテュンブラ平原で両軍の戦闘が行われた(テュンブラの戦い)。ペルシア軍はリディアの騎兵に対してラクダ騎兵を持ってあたり、リディア騎兵の馬はラクダの臭いを嫌って逃走してしまったという。