オレゴン州のオスウィーゴ(現:レイク・オスウィーゴ)に生まれる[1]。父はミズーリ州コンコーディア出身のハーマン・ヘンリー・ウィリアム・ポーリング (1876?1910)、母はオレゴン州ローンロック出身のルーシー・イザベル・ダーリング (1881?1926)。ハーマンは薬剤師だったが仕事がうまく行かず、1903年から1909年まで家族を連れてオレゴン州内の都市を転々と移り、最終的にポートランドに戻った。ハーマンは1910年、イザベルと子供たちを残して穿孔性潰瘍で他界した。ライナスにはポーリン・ポーリング (1901?2003) とルシル・ポーリング (1904?1973) の二人の妹弟がいた。ポーリンは後に、ニュージャージー州ミルヴィル出身のトーマス・ジョセフ・ネイ (1881?1963) と結婚している。
ポーリングは幼少の頃、熱心な読書家だった。ある時、父は地方紙宛に手紙を送り、ポーリングが熱中しそうな本を何冊か紹介して欲しいと依頼したほどであった。ポーリングが小学校に通っていた頃、父の友人ロイド・ジェフレスは寝室に小さな化学の実験室を持っており、そこで室内実験を学んだポーリングは、化学工学の道へ進む夢を抱いた。
その後、ポートランドのワシントン高校に進学したポーリングは化学の実験を続けた。機材は祖父が夜警員として働いていた仕事場近くの廃棄鉄工場から借用していた。
ポーリングは必修のアメリカ史の単位を取ることができず、高校の卒業証書を授与される資格が得られなかった。同高校が卒業証書を授与したのは45年後の1962年、ポーリングが2つのノーベル賞を受賞した後のことである。[2]
学生時代ポーリングは1922年にオレゴン農業大学を卒業した。
1917年、コーバリスのオレゴン農業大学(現:オレゴン州立大学)に入学した。オレゴン農業大学に在学中、ポーリングはデルタ・ユプシロン・フラタニティのオレゴン農業大学支部を創設。経済的な理由により、大学の講義に出席する傍ら、フルタイムで働く生活を余儀なくされた。入学して2年が経った後、ポーリングは母を養うためにポートランドで職を探そうとしていたが、大学側は彼に定量分析(ポーリングが学生として終えたばかりのコース)を教える職を提供した。これにより、彼は学生を続けることができるようになった。
オレゴン農業大学での最後の2年間で、ポーリングはギルバート・ルイスとアーヴィング・ラングミュアによる原子の電子構造と分子を形成する原子間結合についての研究を知る。これにより、物質の物理的及び化学的性質とそれを構成する原子構造の関係の研究に集中することを決心した。後には量子化学という新分野の開拓者の一人となった。
1922年、ポーリングは化学工学で学士号を授与されオレゴン農業大学を卒業。カリフォルニア州パサデナのカリフォルニア工科大学に進学し、ロスコー・ディッキンソンに師事する。卒業研究はX線回折を用いた結晶構造決定に関するものであった。同大学在学中に、鉱物の結晶構造に関する7報の論文を発表した。1925年、物理化学と数理物理学で博士号を最優等で授与された。
大学4年生の時、ポーリングは「家政学科のための化学」という3年生のコースを教えていた。[3]そこでエヴァ・ヘレン・ミラーと出会い、1923年6月17日に結婚した。彼らの間には3人の息子(クレリン、ライナス、ピーター)と1人の娘(リンダ)が生まれた。
ポーリングはその後、グッゲンハイム奨学金を使ってヨーロッパに渡り、ミュンヘンでドイツ人物理学者のアルノルト・ゾンマーフェルトに、コペンハーゲンでデンマーク人物理学者のニールス・ボーアに、そしてチューリッヒでオーストリア人物理学者のエルヴィン・シュレーディンガーにそれぞれ師事した。これら3人の物理学者は、物理学の諸分野に加えて量子力学という新分野を専門にしていた。オレゴン農業大学に在学中、ポーリングは量子論、量子力学の考え方に触れ、それらがどのように原子と分子の電子構造の理解に応用されるのかに興味を持った。ヨーロッパでポーリングは、ヴァルター・ハイトラーとフリッツ・ロンドンが行った水素分子中の結合の量子力学的解析のひとつに触れる。ポーリングは2年間のヨーロッパ滞在をこの仕事に費やし、これを将来研究の焦点にすることを決めた。これにより、量子化学の最初期の研究者、および量子論を分子構造論へ応用した草分け的存在となる。1927年、カリフォルニア工科大学で理論化学の助教 (assistant professor) に就任した。
ポーリングはカリフォルニア工科大学で教員活動を開始したが、最初の5年間は非常に実りが多く、X線結晶学の研究と、原子や分子の量子力学計算を続けた。この5年間で彼はおよそ50の論文を発表し、ポーリングの法則として知られる5つの法則を発見した。1929年、彼は准教授 (associate professor) に昇任し、1930年には教授に就任した。1931年までにアメリカ化学会よりラングミュア賞(30歳以下の人物による純粋科学で最も重要な研究に送られる)を受賞した。