1917年、コーバリスのオレゴン農業大学(現:オレゴン州立大学)に入学した。オレゴン農業大学に在学中、ポーリングはデルタ・ユプシロン・フラタニティのオレゴン農業大学支部を創設。経済的な理由により、大学の講義に出席する傍ら、フルタイムで働く生活を余儀なくされた。入学して2年が経った後、ポーリングは母を養うためにポートランドで職を探そうとしていたが、大学側は彼に定量分析(ポーリングが学生として終えたばかりのコース)を教える職を提供した。これにより、彼は学生を続けることができるようになった。
オレゴン農業大学での最後の2年間で、ポーリングはギルバート・ルイスとアーヴィング・ラングミュアによる原子の電子構造と分子を形成する原子間結合についての研究を知る。これにより、物質の物理的及び化学的性質とそれを構成する原子構造の関係の研究に集中することを決心した。後には量子化学という新分野の開拓者の一人となった。
1922年、ポーリングは化学工学で学士号を授与されオレゴン農業大学を卒業。カリフォルニア州パサデナのカリフォルニア工科大学に進学し、ロスコー・ディッキンソンに師事する。卒業研究はX線回折を用いた結晶構造決定に関するものであった。同大学在学中に、鉱物の結晶構造に関する7報の論文を発表した。1925年、物理化学と数理物理学で博士号を最優等で授与された。
大学4年生の時、ポーリングは「家政学科のための化学」という3年生のコースを教えていた。[3]そこでエヴァ・ヘレン・ミラーと出会い、1923年6月17日に結婚した。彼らの間には3人の息子(クレリン、ライナス、ピーター)と1人の娘(リンダ)が生まれた。
ポーリングはその後、グッゲンハイム奨学金を使ってヨーロッパに渡り、ミュンヘンでドイツ人物理学者のアルノルト・ゾンマーフェルトに、コペンハーゲンでデンマーク人物理学者のニールス・ボーアに、そしてチューリッヒでオーストリア人物理学者のエルヴィン・シュレーディンガーにそれぞれ師事した。これら3人の物理学者は、物理学の諸分野に加えて量子力学という新分野を専門にしていた。オレゴン農業大学に在学中、ポーリングは量子論、量子力学の考え方に触れ、それらがどのように原子と分子の電子構造の理解に応用されるのかに興味を持った。ヨーロッパでポーリングは、ヴァルター・ハイトラーとフリッツ・ロンドンが行った水素分子中の結合の量子力学的解析のひとつに触れる。ポーリングは2年間のヨーロッパ滞在をこの仕事に費やし、これを将来研究の焦点にすることを決めた。これにより、量子化学の最初期の研究者、および量子論を分子構造論へ応用した草分け的存在となる。1927年、カリフォルニア工科大学で理論化学の助教 (assistant professor) に就任した。
ポーリングはカリフォルニア工科大学で教員活動を開始したが、最初の5年間は非常に実りが多く、X線結晶学の研究と、原子や分子の量子力学計算を続けた。この5年間で彼はおよそ50の論文を発表し、ポーリングの法則として知られる5つの法則を発見した。1929年、彼は准教授 (associate professor) に昇任し、1930年には教授に就任した。1931年までにアメリカ化学会よりラングミュア賞(30歳以下の人物による純粋科学で最も重要な研究に送られる)を受賞した。1932年、ポーリング自身が最も重要なものとみなしていた論文、すなわち、原子軌道の混成の概念を打ち出し、それにより四価である炭素原子の電子構造を説明する論文を発表した。
カリフォルニア工科大学で、ポーリングは理論物理学者のロバート・オッペンハイマーと親交を結ぶ。オッペンハイマーはカリフォルニア大学バークレー校の教授だったが、毎年研究や講義で一部の時間をカリフォルニア工科大学で過ごしていた。ポーリングは睡眠中に歌を歌うことで知られており、そのために、一度夜中に歌を歌い逮捕されたことがあった。2人は共同で化学結合の本質を暴くことを計画した。つまり、オッペンハイマーが数学の部分を担当し、ポーリングがその結果を解釈していたようである。しかしこの関係は、オッペンハイマーが妻エヴァ・ヘレンに近付きすぎているのではないかとポーリングが疑い始めたことによって、ほころびていった。ある時、ポーリングが仕事で外出している最中、オッペンハイマーは彼らの家を訪れてエヴァ・ヘレンにメキシコへの逢い引きを誘った。彼女はにべもなく断り、ポーリングにこの出来事を報告した。この事件と、この事件に関して彼女が外見上無関心であったことからポーリングの心は乱れ、すぐに彼はオッペンハイマーとの親交を断ち切った。これは後年において、ポーリングとオッペンハイマーの関係が冷える原因となった。オッペンハイマーは原子爆弾計画の際、ポーリングを化学部門のトップに招いたが、ポーリングは自分が平和主義者であることを理由に辞退した。
1930年の夏、ポーリングは再びヨーロッパに渡り、電子線回折法を学んだ。カリフォルニア工科大学で彼は学生のブロックウェイ (L. O. Brockway) と共に電子線回折装置を構築し、多くの分子構造解析に活用した。