ライナス・ポーリング
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4 化学結合の性質の探究

5 原子核構造の研究

6 生体分子の研究

7 分子遺伝学

8 平和運動

9 電気自動車の開発

10 臨床医学におけるビタミン治療の研究

11 ポーリングの遺産

12 死去

13 受賞歴

14 豆知識

15 著作

16 家系に関する覚書

17 関連項目

18 参考文献・記録

18.1 参考文献

18.2 記録


19 有名な言葉

20 外部リンク

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若年期

オレゴン州のオスウィーゴ(現:レイク・オスウィーゴ)に生まれる[1]。父はミズーリ州コンコーディア出身のハーマン・ヘンリー・ウィリアム・ポーリング (1876?1910)、母はオレゴン州ローンロック出身のルーシー・イザベル・ダーリング (1881?1926)。ハーマンは薬剤師だったが仕事がうまく行かず、1903年から1909年まで家族を連れてオレゴン州内の都市を転々と移り、最終的にポートランドに戻った。ハーマンは1910年、イザベルと子供たちを残して穿孔性潰瘍で他界した。ライナスにはポーリン・ポーリング (1901?2003) とルシル・ポーリング (1904?1973) の二人の妹弟がいた。ポーリンは後に、ニュージャージー州ミルヴィル出身のトーマス・ジョセフ・ネイ (1881?1963) と結婚している。

ポーリングは幼少の頃、熱心な読書家だった。ある時、父は地方紙宛に手紙を送り、ポーリングが熱中しそうな本を何冊か紹介して欲しいと依頼したほどであった。ポーリングが小学校に通っていた頃、父の友人ロイド・ジェフレスは寝室に小さな化学の実験室を持っており、そこで室内実験を学んだポーリングは、化学工学の道へ進む夢を抱いた。

その後、ポートランドのワシントン高校に進学したポーリングは化学の実験を続けた。機材は祖父が夜警員として働いていた仕事場近くの廃棄鉄工場から借用していた。

ポーリングは必修のアメリカ史の単位を取ることができず、高校の卒業証書を授与される資格が得られなかった。同高校が卒業証書を授与したのは45年後の1962年、ポーリングが2つのノーベル賞を受賞した後のことである。[2]


学生時代ポーリングは1922年にオレゴン農業大学を卒業した。

1917年、コーバリスオレゴン農業大学(現:オレゴン州立大学)に入学した。オレゴン農業大学に在学中、ポーリングはデルタ・ユプシロン・フラタニティのオレゴン農業大学支部を創設。経済的な理由により、大学の講義に出席する傍ら、フルタイムで働く生活を余儀なくされた。入学して2年が経った後、ポーリングは母を養うためにポートランドで職を探そうとしていたが、大学側は彼に定量分析(ポーリングが学生として終えたばかりのコース)を教える職を提供した。これにより、彼は学生を続けることができるようになった。

オレゴン農業大学での最後の2年間で、ポーリングはギルバート・ルイスアーヴィング・ラングミュアによる原子電子構造分子を形成する原子間結合についての研究を知る。これにより、物質の物理的及び化学的性質とそれを構成する原子構造の関係の研究に集中することを決心した。後には量子化学という新分野の開拓者の一人となった。

1922年、ポーリングは化学工学で学士号を授与されオレゴン農業大学を卒業。カリフォルニア州パサデナカリフォルニア工科大学に進学し、ロスコー・ディッキンソンに師事する。卒業研究はX線回折を用いた結晶構造決定に関するものであった。同大学在学中に、鉱物の結晶構造に関する7報の論文を発表した。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:Smilegreen