ポーリングはこの問題を説明するために11年を要した。彼の数学による分析は正しかったが、アストベリーの写真は、タンパク質分子が予測される位置から傾いて写るように撮影されていたのである。ポーリングは、内部で原子が螺旋状に並んだヘモグロビンの構造モデルを考案し、この概念をタンパク質全般に拡張した。
1951年、ポーリングらは、アミノ酸とペプチドの構造とペプチド結合の平面性を基に、タンパク質二次構造中の主要な構造モチーフであるαヘリックスとβシートを正確に提唱した。この業績は彼の非凡な思考力を示すもので、一巻きの螺旋中に非整数個のアミノ酸残基の存在しうることを示したこの型破りな仮説は、タンパク質構造論の中核を成すものであった。
ポーリングは間もなくして、デオキシリボ核酸(DNA)の螺旋構造を推定した。しかし彼のモデルは、中性リン酸基の存在を予測したためにDNAが酸性である事実と矛盾してしまうなど、いくつかの基本的な間違いを犯していた。[12] αヘリックス発見の競争でポーリングが勝利を納めると、競争相手だったウィリアム・ローレンス・ブラッグは落胆した。ブラッグのチームはペプチド結合の平面性を認めないという根本的な間違いを犯していたのである。ポーリングがDNA構造の分子モデルを研究している事実がキャヴェンディッシュ研究所で発覚すると、ブラッグはワトソンとクリックに、キングス・カレッジのモーリス・ウィルキンスとロザリンド・フランクリンによる未発表データを参考してDNA分子構造モデルを作成することを許可した。1953年初頭、ジェームズ・ワトソンとフランシス・クリックはDNA二重螺旋構造を正確に提唱した。ポーリングがこの研究で直面した障壁の一つに、ロザリンド・フランクリンによって撮影されワトソンとクリックが参照した、DNAの高精度なX線構造写真を入手する手段が無かったことがある。彼はある会議に出席するためにイギリスに赴く計画を立てていたが、当時の彼には共産主義同調者としての容疑が掛かっており、国務省が彼のパスポートを差し押さえていたため、イギリス訪問は成就しなかった。もしその会議に出席していたら、ポーリングはこのフランクリンの写真を閲覧出来たかもしれない。
また、ポーリングは酵素反応についても研究し、酵素が反応の遷移状態を安定化させるという酵素反応メカニズムの中心的概念を指摘した先駆者の一人であった。また、抗体の抗原への結合は各々の構造間の相補性によるものであると主張した最初の研究者の一人でもあった。また、ポーリングは物理学から生物学に転向したマックス・デルブリュックと共に、DNAの複製が、何人かの研究者が推定したような類似性では無く相補性による可能性が高いと主張する論文を早い時期に発表した。これは後にワトソンとクリックが発見したDNA構造モデルで明らかになった。
1949年11月、ライナス・ポーリング、ハーヴェイ・イタノ、S. J. シンガー、イベール・ウェルズは、ある種の人間の病気が特定のタンパク質の変化に関係があるとする論文をサイエンス誌に発表した。[13]彼らは電気泳動を用いて、鎌状赤血球病を持つ個体が赤血球に修飾されたヘモグロビンを持っていること、また鎌状赤血球形質を持つ個体が正常なヘモグロビンと異常なヘモグロビンの両方を持っていることを明らかにした。これは特定のタンパク質がある種の人間の病気に関係し、そのタンパク質内の変化にメンデル性遺伝が存在することを示した最初の証明---分子遺伝学の夜明け---であった。
ポーリングは元々政治には殆ど関心が無かったが、第二次世界大戦が起きると彼の生き方は大きく変わり、平和活動家になった。マンハッタン計画が始まって間もない頃、ロバート・オッペンハイマーは計画の化学部門にポーリングを招聘したが、彼は平和主義者であることを理由に辞退した。1946年、アルベルト・アインシュタインが議長を務める原子力科学者の危機管理委員会に参加した。この委員会の任務は、核兵器の開発に付随する危険性を一般社会に警告することだった。ポーリングの平和活動は、1952年に国務省が彼のパスポートを差し押さえた事件に繋がった。同年、彼は招かれたロンドンの科学会議で講演をする予定だった。パスポートは1954年、ストックホルムで彼が初めてノーベル賞を受賞した授賞式の直前に返還された。1955年、アインシュタインやバートランド・ラッセルら第一級の科学者や知識人が参加する中、ポーリングはラッセル=アインシュタイン宣言に署名した。
1957年、ポーリングは生物学者のバリー・コモナーと協力して署名運動を始めた。コモナーは北米各地の子供の乳歯から検出される放射性物質のストロンチウム90を研究し、地上核実験が放射性降下物の形で公衆衛生に危険を齎していると結論付けていた。