ユーゴスラビア
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ユーゴスラビアの崩壊1991年以降の旧ユーゴスラビアの変遷

1991年6月、スロベニア・クロアチア両共和国はユーゴスラビアからの独立を宣言した。セルビアが主導するユーゴスラビア連邦軍とスロベニアとの間に十日間戦争、クロアチアとの間にクロアチア紛争が勃発し、ユーゴスラビア紛争が始まった。十日間戦争は極めて短期間で終結したものの、クロアチア紛争は長期化し、第二次世界大戦中のウスタシャとチェトニックの関係を思わせるような相互による略奪、虐殺、強姦を繰り返す状態に陥った。1992年4月には、3月のボスニア・ヘルツェゴビナの独立宣言をきっかけに、同国内で独立に反対するセルビア人と賛成派のクロアチア人・ボシュニャク人(ムスリム)が対立し、ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争が起こった。同国はセルビア人・クロアチア人・ボシュニャク人の混住がかなり進行していたため状況はさらに深刻で、セルビア・クロアチア両国が介入したこともあって戦闘は泥沼化した。この間、1992年4月28日にセルビアと独立を実施しなかったモンテネグロによって人民民主主義、社会主義を放棄した「ユーゴスラビア連邦共和国(通称新ユーゴ)」の設立が宣言された。

クロアチア紛争、ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争は国連の調停やNATOの介入によって、1995年デイトン合意によって漸く終結をみた。しかし、セルビアがこれらの地域で発生したセルビア人難民のコソボ自治区への殖民を強力に推進したため、コソボの民族バランスが大きく崩れた。これに危機感を抱いた多数派のアルバニア系の住民に抵抗運動が激化し、1998年独立強硬派のコソボ解放軍(KLA)と鎮圧に乗り出したユーゴスラビア軍との間にコソボ紛争が発生した。介入したNATO軍による空爆などを経て、2000年にユーゴスラビア軍はコソボから撤退し、和平協定に基づき国際連合コソボ暫定行政ミッション (UNMIK)が設置された。ミロシェヴィッチは大統領の座を追われ、ハーグ国際戦犯法廷に引き渡された。

一方、その人口規模の小ささから独立を選択しないで、一旦はセルビアとの連邦を選択したモンテネグロでも、セルビアに対する不満が高まった。人口比が反映された議会、政府は完全にセルビアによって運営される事になり、この間モンテネグロはセルビアと共に国際社会からの経済的制裁、政治的な制裁を受けることになった。これに対しての不満がモンテネグロ独立運動の端緒である。モンテネグロは過去の経験からコソボ紛争に対してはセルビアに協力しない方針をとり、むしろアルバニア人を積極的に保護するなどして、国際社会に対してセルビアとの差異を強調した。紛争終結後は通貨関税、軍事コマンド、外交機関などを連邦政府から独立させ独立の外堀を埋めていった。これに対して欧州連合はモンテネグロの独立がヨーロッパ地域の安定化に必ずしも寄与しないとする方針を示し、セルビアとモンテネグロに対して一定期間の執行猶予期間を設ける事を提示した。両共和国は欧州連合の提案を受け入れ、2003年2月5日にセルビアとモンテネグロからなるユーゴスラビア連邦共和国は解体されゆるやかな共同国家となる「セルビア・モンテネグロ」が誕生した。セルビア・モンテネグロはモンテネグロの独立を向こう3年間凍結する事を条件として共同国家の弱体化、出来うる限りのセルビアとモンテネグロの対等な政治システムを提示したが、モンテネグロは共同国家の運営に対して協力的でなく独立を諦める気配を見せようとしなかった。

このため欧州連合は、投票率50%以上賛成55%以上という条件でモンテネグロの独立を問う国民投票の実施を認めた。2006年5月23日に国民投票が行われ、欧州連合の示す条件をクリアしたため、同年6月3日にモンテネグロは連合を解消して独立を宣言した。これをセルビア側も承認し、欧州連合がモンテネグロを国家承認したため、モンテネグロの独立が確定した。

これによってユーゴスラビアを構成していた6共和国はそれぞれ完全に独立する事になった。


指導者


ユーゴスラビア王国の君主

すべてカラジョルジェヴィチ家
ペータル1世(1918年-1921年セルブ・クロアート・スロヴェーヌ王)

アレクサンダル1世(1921年-1929年セルブ・クロアート・スロヴェーヌ王、1929年-1934年ユーゴスラビア王)

ペータル2世(1934年-1941年ユーゴスラビア王、1941年-1945年枢軸国の侵略によりロンドン亡命)


ユーゴスラビア共産主義者同盟の書記長
ヨシップ・ブロズ・チトー(1939年3月-1980年5月4日)

ブランコ・ミクリッチ(クロアチア出身、1978年10月19日 - 1979年10月23日)代理

ステヴァン・ドロニスキ(ヴォイヴォディナ出身、1979年10月23日 - 1980年5月4日)代理


ステヴァン・ドロニスキ(ヴォイヴォディナ出身、1980年5月4日 - 1980年10月20日)

ラザル・モイソフ(マケドニア出身、1980年10月20日-1981年10月20日)

ドゥシャン・ドラゴサヴァツ(クロアチア出身、1981年10月20日-1982年6月29日)

ミチャ・リビチッチ(スロヴェニア出身、1982年6月29日-1983年6月30日)

ドラゴスラヴ・マルコヴィチ(セルビア出身、1983年6月30日-1984年6月26日)

アリ・スクリヤ(コソヴォ出身、1984年6月26日-1985年6月25日)

ヴィドイェ・ジャルコヴィチ(モンテネグロ出身、1985年6月25日-1986年6月26日)

ミランコ・レノヴィツァ(ボスニア・ヘルツェゴビナ出身、1986年6月26日-1987年6月30日)

ボシュコ・クルニッチ(ヴォイヴォディナ出身、1987年6月30日-1988年6月30日)

スティペ・シュヴァル(クロアチア出身、1988年6月30日-1989年6月30日)

ミラン・パンチェフスキ(マケドニア出身、1989年6月30日-1990年6月30日)


ユーゴスラビア連邦人民共和国、ユーゴスラビア社会主義連邦共和国大統領
イヴァン・リヴァル(1945年12月29日 - 1953年1月14日)

ヨシップ・ブロズ・チトー(1953年1月14日 - 1980年5月4日)1963年から終身大統領

ラザル・コリシェヴスキ(1980年5月4日 - 1980年5月15日)

ツヴィイェチン・ミヤトヴィッチ(1980年5月15日 - 1981年5月15日)

セルゲイ・クライゲル(1981年5月15日 - 1982年5月15日)

ペータル・スタンボリッチ(1982年5月15日 - 1983年5月15日)

ミカ・シュピルヤク(1983年5月15日 - 1984年5月15日)

ヴェセリン・ドゥラノヴィッチ(1984年5月15日 - 1985年5月15日)

ラドヴァン・ヴライコヴィッチ(1985年5月15日 - 1986年5月15日)


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:Mamenoki