ユリシーズ・S・グラント
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8月末、グラントは西部戦域司令官ジョン・C・フリーモント少将により非常にハレック将軍の下で南東ミズーリ戦線を任されることとなる。

1862年2月、東部では北軍の苦戦が続く中、西部では河川砲艦と奇襲を組み合わせてヘンリー砦とドネルソン砦を奪取し、西部戦線の東西河川交通の要衝を支配した。これは北軍のミシシッピー河を南下して南部連合の中部と西部を分断する大戦略を可能にした。 その後、シャイロー付近で部隊を駐屯中に南軍の奇襲攻撃を受けたが、これを撃退に成功した。上官のハレック将軍は一時グラントの功績を嫉妬したのか、飲酒癖を理由に解任したが、結局のところ彼の能力は捨てがたく、結局再任されることになる。

10月にはハレック将軍が東部戦線のポトマック軍司令官に召還され、後任としてテネシー軍司令官となった。野戦軍司令官としてポトマック軍司令官に次ぐ重職といえる。グラントは水陸一体の作戦を進めミシシッピ河を南下。1863年4月には南部でのミシシッピ河の重要な渡河点であるヴィックスバーグ要塞を河川砲艦による強行突破と奇襲上陸により包囲体制を築くと、7月3日にこれを陥落させた。これは有名なゲティスバーグの戦いの最終日と同じ日であり、南軍の攻勢の終末点であると同時に、戦略的に南部が東西に分断され西部での北軍の攻勢が完遂した日でもある。11月にはチャタヌーガで南軍を敗退させ、西部にいて南軍が組織的反撃を行う能力をほぼ喪失させた。

リンカーン大統領にとって首都防衛と敵攻略を兼ねるポトマック軍の司令官に人材を得ないのが最大の悩みであり、師団長クラスでは優秀な戦術家であっても司令官となるととたんに弱点を露呈する将軍が多く、マクダウェル、マクレラン、フッカー、バーンサイド、ハレックとことごとく期待を裏切っており、ゲティスバーグでリーを撃退したミードもこの任に長く耐えられそうもなかった。そのため、西部で南軍を切り裂いたグラントに白羽の矢が立てらることになる。

1864年3月、ミードはそのままポトマック軍司令官に留任し、その上級司令官の形でグラントが北軍総司令官に任命され、主に東部戦線の指揮をとった。

西部戦線の後任にはグラントの盟友でかつ忠実な部下であったウィリアム・シャーマン将軍がテネシー軍司令官となり、アトランタを抜けてサヴァナへの海への進撃を行い、南軍の戦争遂行能力をずたずたに引き裂いた。

一方でグラントは人口と工業生産力にまさる北軍の国力を背景に、東部では物量による不屈の南下作戦を開始し、常にリーを相手に大損害を受けながらリッチモンドへ進撃を開始。ウィルダネスの戦い、スポットシルヴェニアの戦い、コールドハーバーの戦いと全てリーの南軍は寡兵ながら自軍以上の損害を与え続けたものの、消耗戦に巻き込まれた形になり、また迂回と突破、そして海上移動を使い分けるグラントに徐々に押し込められていった。グラントは南部連合首都のリッチモンドの裏口にあたるピーターズバーグに海路押し寄せ、リーは事前に察知して先回りし塹壕線を築くが、結果的に野戦軍がリッチモンド及びピーターズバーグに押し込められる形になり、戦略的包囲に成功した。そのため、アトランタから大西洋へ抜けようとするシャーマンに対して救援が送れず、シャーマンはやがてサヴァナから北上してさらに両カロライナとヴァージニアを焼き尽くしながらグラントに合流する。これにより、南軍は降伏し、グラントは南北戦争における英雄となった。

戦争後に連邦議会は、1866年7月25日に陸軍元帥の階級を新しく作成して彼を任命し、その労をねぎらった。


インディアン戦争

熱心な保留地政策の支持者であり、どちらかといえば和平主義者であった。が、保留地囲い込みに従わない部族は絶滅させるとの姿勢だった。

1860年代に、保留地監督官にクェーカー教徒など聖職者を任命する和平案を考案した。しかしキリスト教の押し付けもインディアン部族にとっては余計なお世話であり、対立は解消されなかった。

このグラントの和平案から、「戦争の諸原因を除去し、辺境での定着と鉄道建設を確保し、インディアン諸部族を開化させるための体系を作り上げる」べく、「和平委員会」が設立されることとなった。

和平委員会はインディアン諸部族と数々の条約を(武力を背景に無理矢理)結んていったが、すぐに白人側によって破られていく現実を前に、グラントが夢想したような和平などは実現しなかった。

西部インディアン部族の最大反抗勢力であるスー族に対し、雪深い真冬に保留地への全部族員移動を命じて反感を増大させ、戦乱のきっかけを作った。


大統領職グラントメモリアルの立像。妻のジュリアはポケットに手を入れた仕草が夫をよく表していると語った。

グラントは1868年5月20日にシカゴの共和党全国大会で満場一致で共和党大統領候補に選ばれた。その年の大統領選では、合計5,716,082の投票中3,012,833(52.7%)を得票し勝利した。特に黒人の支持票が多かった。

グラントの大統領職は、汚職とスキャンダルに悩まされた。特に連邦政府の税金から300万ドル以上が不正に得られたとされるウイスキー汚職事件。個人補佐官オービル・E・バブコックは不正行為に関与したとして起訴され、大統領の恩赦で有罪判決を回避した。ウイスキー汚職事件後に、陸軍省長官ウィリアム・E・ベルナップがアメリカインディアンとの販売・取引ポストと交換に賄賂を受けとったことが調査によって明らかになった。グラント自身が部下の不正行為から利益を得たという証拠がないが、彼は犯罪者に対する厳しいスタンスをとらず、彼らの罪が確定した後さえ、強く反応しなかった。

荒廃した南部の再建および先住民対策に失敗し、支持が急落した。

1872年3月3日には、アメリカを訪問した岩倉使節団と会見した。その際使節団に対し、キリスト教禁教を続ける明治政府の政策を激しく非難した。


内閣


職名氏名任期

大統領ユリシーズ・グラント1869 - 1877
副大統領スカイラー・コルファクス1869 - 1873
 ヘンリー・ウィルソン1873 - 1875

国務長官エリフ・B・ウォッシュバーン1869
 ハミルトン・フィッシュ1869 - 1877
財務長官ジョージ・バウトウェル1869 - 1873
 ウィリアム・リチャードソン1873 - 1874
 ベンジャミン・ブリストウ1874 - 1876
 ロト・モリル1876 - 1877
陸軍長官ジョン・アーロン・ローリンズ1869
 ウィリアム・シャーマン1869
 ウィリアム・ワース・ベルナップ1869 - 1876
 アルフォンソ・タフト1876
 ジェイムズ・ドナルド・キャメロン1876 - 1877


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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