メアリー1世_(イングランド女王)
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宗教政策

熱心なカトリック信者であるメアリー1世は、父ヘンリー8世以来の宗教改革を覆し、カトリック復帰を徹底した(とはいえ、教会の資産を回復することはできなかった)。彼女はプロテスタントの指導者を次々と処刑し、その数は300名に上ったと言われる。このことから、「血塗れのメアリー」(Bloody Mary)と呼ばれることになった。ちなみに、カクテルの一種ブラッディ・マリー(Bloody Mary)の名はメアリーに由来する。

メアリーの即位した時期は、ヘンリー8世およびエドワード6世の治世を経て、脱カトリック的な政治体制を歩み始めていた頃であり、政治の中枢においてもイングランド国教会や新教に属する者が権限を持っていた。メアリーの反動政治、唐突なカトリック復帰政策は社会に少なからぬ動揺をもたらし、混乱を招くこととなった。

次代の女王エリザベスがイングランド国教会を復活させながらも「中道」(Via Media)政策をとってカトリック弾圧をしなかったことも、メアリーの過激さを印象づける一因となっていると言える。


フェリペ2世との結婚

スペイン王家の血を引くメアリーは、結婚の相手にスペインの王太子フェリペ(従兄に当たる神聖ローマ皇帝カール5世の子、後のスペイン王フェリペ2世)を選んだ。しかし、カトリック国であるスペインの王太子との結婚は反対するものが多く、トマス・ワイアットらがケントで蜂起する事態となったが、反乱は失敗しトマスは処刑された。この時も、またこの後起きる反乱もすべてエリザベスを王位につけることを要求している。

メアリーは反対を押し切り、1554年7月20日にフェリペと結婚した。1556年にフェリペはスペインに帰国してフェリペ2世として即位し、1年半後にロンドンに戻ったものの、わずか3ヶ月後には再びスペインに帰国した。このことにより、イングランドはフランスとスペインの戦争に巻き込まれ、フランスに敗れて大陸に有していた唯一の領土カレーを失うことになった。

フェリペ2世との結婚後、懐妊と思われた状況もあったが、想像妊娠であった上、実は卵巣腫瘍が発病していた模様で、妊娠と思われたのはその症状であったと推測されている。

メアリーは異母妹エリザベスを、母キャサリン・オブ・アラゴンを離婚に追いやった女の娘として、終生憎み続けた。死の前日にようやく自分の後継者として指名するほどだった。

メアリー1世は5年余りの在位の後、卵巣腫瘍により1558年11月17日セント・ジェームズ宮殿で亡くなった。メアリーの命日はその後200年間、圧政から解放された祝日として祝われた。


修正主義による再評価

近年、ピューリタン寄りでリベラルな従来の歴史観を批判する修正主義によって、メアリー治世への極度に否定的な見方は緩みつつある。彼女の治世は主に宗教改革の文脈における「反動」、そしてスペイン王位継承者との結婚の2点から痛烈な非難を浴びてきたが、新しい角度からの視点では次のように評価される。

まず宗教改革はエドワード6世時代には一般社会には浸透せず、イングランドの実質的なプロテスタント化はエリザベス1世時代以後に進んでいったものと言われる。エドワード崩御時点では、教養ある貴族・ジェントリ階層は伝統的な宗教慣習に強い愛着を示し、一般民衆と彼らを教導する教区の聖職者も、教育レベルの低さからプロテスタント教義を一向に理解しなかった。このためカトリックへの復帰はさしたる抵抗なく行われたといえる。メアリーの治世がもし長ければイングランドがプロテスタント国家にならなかった可能性は高い。

外国王族フェリペとの結婚はスペインへの属国化を招きかねなかったと非難される。しかし当時イングランド王家の血筋が殆ど女性だったこと、国内貴族との結婚も、貴族の派閥争いを生む恐れから憚られたことから、やむなくフェリペを選んだ事情があった。結婚時の取り決めでも、フェリペと先妻との間の子にイングランド王位の継承資格は認めず、フェリペのイングランド共同統治者の資格も、メアリーとの結婚期間のみと定められるなど、イングランドの独立性を考慮したと指摘される。

だが彼女の治世は短命に終わり、さらに子供を残せなかったことで、妹エリザベスの次期後継は事実上決定していた。このためメアリーの敷いた親カトリック、親スペイン路線の継続はその晩年には絶望的になっていた。


クイーン・メアリー

クイーン・メアリー(Queen Mary)は他に3人がほぼ同時代に存在する。

メアリー・オブ・ギーズ:スコットランド王ジェームズ5世の妃で女王メアリー・ステュアートの母

メアリー・ステュアートスコットランド女王

メアリー・テューダーフランスルイ12世の妃。本項のメアリー1世の叔母。

メアリー女王、メアリー1世に限っても2人、メアリー・テューダーに限っても2人が存在することになる。


小説

Carolyn Meyer Mary, bloody Mary

Carolyn Meyer Beware, Princess Elizabeth

Jean Plaidy In the shadow of the crown Three river press

ロザリンド・マイルズ『我が名はエリザベス(上)』近代文芸社


参考文献

石井美樹子『イギリス・ルネサンスの女たち』中央公論社

石井美樹子『薔薇の冠〜イギリス王妃キャサリンの生涯』 朝日新聞社

岩井淳/指昭博(編)『イギリス史の新潮流 修正主義の近世史』彩流社 2000年

小西章子『華麗なる二人の女王の闘い』小学館

ヒバート『女王エリザベス(上)』原書房 ISBN 4562031468

Nichols,J.G(ed.),Chronicles of Queen Jane and Two Years of Queen Mary, Camden Society, 1850, rep. 1968.

Nichols,J.G(ed.), Diary of Henry Machyn, Camden Society, 1848, rep. 1968.

R.Tyler(ed.), Calendar of Letters, Despatches and State papers relating to the Negotation between England and Spain,1969-78, vol. 11.


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担当:Mamenoki