組織
ボリシェビキ ・ メンシェビキ
ソビエト連邦共産党
チェーカー ・ ゲーペーウー
ソ連国家保安委員会
歴史
ロシア革命 ・ 大粛清 ・ 独ソ戦
冷戦 ・ 8月クーデター ・ ソ連崩壊
1931年3月2日、ソビエト連邦ロシア・ソビエト連邦社会主義共和国のスタヴロポリ地方プリヴォリノエ村にコルホーズ(協同組合形式による集団農場)の農民の子として生まれる。幼年時代、スターリンの大粛清に遭遇する。このとき祖父アンドレイがサポタージュの嫌疑で投獄されている。父セルゲイ・アンドレーヴィチ・ゴルバチョフは、農業技術者で第二次世界大戦に従軍し戦死しゴルバチョフは母マリア・パンテレーエヴナの手によって育てられた。
1942年に独ソ戦が始まると、スタヴロポリ地方はナチス・ドイツ軍の占領を経験している。戦後、14歳でコンバインの運転手として働く(夏のみ働いたいうのが有力)一方、成績は優秀で上級学校で銀メダルを授与された。18歳で労働記章を授与される機会に恵まれ、1950年、19歳のときにスタヴロポリ市当局の推薦でモスクワ大学法学部に入学した。後に夫人となる哲学科の学生ライサ・マクシーモヴナ・ティタレンコと出会う。
5年間の大学生活中、ストロミンカ学生宿舎で生活するが、その間、チェコスロバキアから留学していた、ズデネク・ムリナーシと出会う。ムリナーシは後に、チェコで「プラハの春」の推進者の一人となり、その後のゴルバチョフに大きな影響を与えた。1952年10月にソ連共産党に入党。1953年、ライサと結婚。1955年にモスクワ大学法学部を卒業する。
大学卒業後、ソ連検察庁の国家試験を受験。いったんは内定を受けたが結局不採用となり、故郷のスタヴロポリに戻り地元でコムソモール活動に従事する。1955年のスタヴロポリ市コムソモール第一書記、1962年のスタヴロポリ地方コムソモール第一書記、1966年のスタヴロポリ市党第一書記、1968年のスタヴロポリ地方党第二書記を経て、1970年にスタヴロポリ地方党第一書記に就任し、1971年には40歳の若さで党中央委員に選出される。この間、スタヴロポリ農業大学の通信課程で学び、1967年に科学的農業経済学者の資格を得ている。ゴルバチョフがスタヴロポリ地方の党官僚として階梯を登り始めた時期は、フルシチョフの非スターリン化が実施された時期であり、ゴルバチョフにも影響を与えたと考えられる。また、この間、スタヴロポリ地方第一書記経験者のミハイル・スースロフや、同郷のユーリ・アンドロポフの知遇を得た他、同格の地方共産党の指導者であったボリス・エリツィンやエドゥアルド・シェワルナゼらと交流を持つに至る。
その後1978年、自殺したフョードル・クラコフの後任として農業担当書記になる。1979年、政治局入りし、政治局員候補となる。1980年、最年少の政治局員となる。ブレジネフ書記長の死後、アンドロポフが書記長となる。ゴルバチョフは、No.2に当たるイデオロギー担当書記となる。チェルネンコ書記長時代も病身のチェルネンコを「第二書記」として補佐し、次第に改革派としてその名が知られるようになる。
1983年、カナダを訪問し、ピエール・トルドー首相と会談。この時に駐カナダ大使で、後にゴルバチョフ政権のNo.2としてペレストロイカを牽引するアレクサンドル・ヤコブレフ(ヤコブレフは1973年に当時のブレジネフ書記長によってカナダ大使に任命された)と面識を持つ。さらにイギリスを訪問し、マーガレット・サッチャー首相から「彼となら一緒に仕事ができます」と高い評価を受ける。