レーニンは自らの党組織論をおおむね『何をなすべきか』(1902年)において記している。これは労働組合主義を「経済主義」と呼んで批判する論争的な著作である。
レーニンは革命の可能性について自然発生性のみならず目的意識性を重視した。そのうえで革命への目的意識は外部からプロレタリアートに注入できるとも考え、革命理論はプロレタリアートの外側から知識人から持ち込むものと考えた(この点まではカール・カウツキーと一致している)。加えて、それゆえに実際の党組織と労働者組織は峻別されるべきだと考えた。これらの運動論・党組織論は次のように実践された。
職業革命家の党
ドイツ社会民主党を範とするメンシェヴィキは、大衆に開かれた党を主張した。メンシェビキを率いるマルトフは、党の指導のもと、個人的に党活動に参加すべきであると考えていた。しかし、「党員は党組織の一部を担う」べきだと主張しつづけていたレーニンは、大衆に開かれた党を官憲に開かれた党であるとした。そのうえで言論の自由のないロシアでは、革命党は職業革命家の党にならざるを得ないとした。のちに、これらの党専従活動家・党官僚がノーメンクラトゥーラと呼ばれる特権階級と化してしまうという皮肉が現出した。
民主集中制
もともとは「分派結成の自由」も含めた異論の表明は保障するが、少数は多数の「決定」に従わなければならない、とする組織原則。ボルシェビキは、17年革命以前は分派結成の自由を保障していた。革命後の内戦・帝国列強のロシア侵入に対する戦争の中で「指導部の指導力」を強める必要から、ロシア共産党は一時的な措置として「分派の結成」を禁止した。スターリンは、レーニンの死後、「党は討論クラブではない」として、「分派の禁止」を「民主集中制の原則」にまで高めた。以後、第二次大戦後も各国共産党は、「分派を禁止する一枚岩の組織原則としての民主集中制」を保持し続けた。それは党内討論よりも指導部による方針の上意下達を優先する、各国の共産党を例外なく蝕んだ「組織内官僚主義」の組織論的根拠となったと言えよう。(民主集中制の組織原則は党の方針について、全党的な議論をする、多数決によって決定された方針の正誤は、全党の実践を通じて検証するという組織原則である。レーニンは党内の意見の相違は徹底した議論を重んじていた。有名な論争は、レーニン対マルトフの論争であろう。また、レーニンは意見の違いによって反対者を抑圧したり、組織的排除をするようなことはしなかった。民主集中制の組織原則を乱暴に破壊したのはスターリンである。スターリンはレーニン死後、指導部の90%余りの幹部を弾圧して独裁体制をつくりあげた。)
一国一前衛党論
レーニンは第三インターナショナル(コミンテルン)結成に際して、「支部承認」を求める組織に「社会民主主義からの訣別の証」として「(国名)共産党」と名乗ることを義務付けた。また、一国で複数の共産主義組織の加入申請があった場合はどれか一つ、もしくは組織の統一をさせたうえで支部承認した。しかし、初期のコミンテルンは「一国一支部」を原則としながらも、「コミンテルン支部以外の共産主義組織」を「イコール敵対者」と定義していたわけではない。このコミンテルンの原則を「統一した党は革命の司令部であり、司令部がいくつもあったら命令指揮系統が混乱する」とする「一国一前衛党論」として「原則」にまで高めたのはスターリンである。その結果、スターリン指導下のコミンテルンによる「一国一前衛党論」は、各国支部以外の共産主義組織に対して「反革命トロツキスト」(それは必ずしもトロツキー派の組織ではなくてもレッテルを貼って攻撃した)などと激しく攻撃する「セクト主義」の論理として機能していくことになる。コミンテルンに対抗して1938年に結成されたレフ・トロツキーの第四インターナショナルも「一国一支部の承認」を原則としているが、自派以外の共産主義組織の存在を認める「複数主義」の立場をとっている。
現実
党官僚の特権化
遅れたロシアでは執権すべきプロレタリアートは存在せず、プロレタリアートが発生するまでは党が民衆を指導しなければならないとした。が、レーニンが想定した「プロレタリアート」は発生せず、党官僚がそのまま革命前の貴族や地主、資本家にとって代わって社会のエリート、特権階級として定着してしまった。民衆が貧しい生活を強いられる一方で、党官僚は資本主義の富裕層のような生活を送ったので共産貴族などと呼ばれる。