スペイン語では、Madridの語末の「d」はほとんど発音されず、「マドリー」[ma???i] (太字はアクセント)となるのが一般的である。ただし、マドリード首都圏の発音では、語末の「d」を無声の[θ]で発音するので、「マドリース」 [ma???iθ]となる。その他、「マドリードゥ」[ma???i?]と発音する人もいる。
英語発音から「マドリッド」とも表記される。漢字による当て字は馬徳里。
マドリードの地には、先史時代から人間が住んでいた。ローマ時代には、コンプルトゥム(現在のアルカラ・デ・エナレス)の司教管区に属していた。マドリードが最初に歴史の記録に残されたのは、9世紀に後ウマイヤ朝のムハンマド1世が現在の王宮の位置に、小さな宮殿の建設を命じたときである。この宮殿のそばには小さな要塞が建てられた。近くのマンサナーレス川はアラビア語で「アル・マジュリート」(???????、「水の源」の意)と呼ばれ、そこからこの地は「マジェリト」と呼ばれるようになり、現在の「マドリード」となった。
1085年に要塞はトレドに向かう途上のアルフォンソ6世に征服され、モスクは教会に建て替えられた。1329年、フェルナンド4世に助言するための最初の議会(Cortes Generales)がこの都市で開かれた。セファルディム(ユダヤ教徒)やイスラム教徒もここに住み続けたが、15世紀の終わりに追放された。エンリケ3世の時代には、都市は大火のあとに再建され、王は城壁外のエル・パルドに住んだ。
ルネッサンス期レティーロ公園の外にあるアルカラ門。商人が日曜の市のためにマドリードに入るのに使われた。
カスティーリャ王国(首都トレド)とアラゴン王国(首都サラゴサ)が連合したのち、16世紀にカルロス1世の元でスペイン王国としての融合が進んだ。1561年にフェリペ2世が宮廷をマドリードに移した。王の公式な宣言はなかったものの、宮廷の位置が事実上の首都となった。1601年から1606年の短期間、フェリペ3世が宮廷をバリャドリッドに移したが、スペインの黄金時代にマドリードは新大陸から流入する富によって栄えた。
近代シベレス広場にそびえる中央郵便局(Palacio de Comunicaciones)
18世紀にフェリペ5世は、ヨーロッパの首都としてふさわしいようにマドリード王宮を含む新しい宮殿の建設を行ったが、マドリードが近代的な都市となったのは、カルロス3世の代であった。マドリードの歴史の中でもっとも人気のあるカルロス3世は、「最良の市長であり王」と呼ばれた。
カルロス4世が即位すると、マドリードは反乱を起こした。1808年、息子のフェルナンド7世に率いられたアランフエスの蜂起のあと、カルロス4世は退位し、5月にナポレオンの部隊がマドリードに入城した。5月2日、マドリード市民はフランス軍に対して反乱を起こしたが、鎮圧された。1814年にフェルナンド7世が王位に復帰したが、19世紀の間は自由主義派と保守派の争いが続いた(カルリスタ戦争)。
スペイン内戦(1936年-1939年)では、マドリード市内は戦場となった。マドリードは人民戦線政府の拠点だったが、1936年11月、西の郊外でマドリードを奪取しようとするフランコ軍によって戦闘が繰り広げられた。マドリードは3年の間包囲されたのち降伏した。マドリードは初めて民間人を標的とした航空爆撃を受けた都市となった( ⇒Siege of Madrid (1936-39)を参照)。
フランコの独裁時代の間、マドリードの南は工業化され、多くの移民が地方から流れ込んだ。マドリードの南東沿いにスラムが形成されたが、文化的・政治的な活動の舞台ともなった。フランコの死後、フアン・カルロス1世の元で民主化が進み、マドリードはイベリア半島の経済的な中心としての地位を固めた。
2004年3月11日、マドリード市内の3つの駅で列車爆破テロが発生し、200人以上が死亡した。この事件は3日後の総選挙に大きな影響を与えた。
マドリードは2012年のオリンピックの開催地として立候補したが敗れた。2016年のオリンピックの開催地にも立候補している。
マドリード市はスペインで最も人気のある観光地の一つであり、名所が多い。
観光地
マヨール広場( ⇒Plaza Mayor of Madrid)
王宮( ⇒Royal Palace of Madrid)
プラド美術館
レティーロ公園( ⇒Parque del Buen Retiro)
列車爆破事件の犠牲者を追悼する故人の森がある。
ティッセン・ボルネミッサ美術館( ⇒Museo Thyssen-Bornemisza)
ソフィア王妃芸術センター - ピカソの『ゲルニカ』が展示されている。