マシュー・ペリー
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経歴

ロードアイランド州ニューポートでアメリカ海軍私掠船長のクリストファー・レイモンド・ペリーと妻セーラの間に3男として生まれる。兄はクリストファー・レイモンド・ペリー、オリバー・ハザード・ペリー1809年に自身も海軍に入り、1812年からの米英戦争に2人の兄とともに参加する。1833年ブルックリン海軍工廠の造船所長となり、1837年アメリカ海軍最初の蒸気船フルトン号を建造する。同年海軍大佐に昇進し、1841年には同海軍工廠の司令官となった。蒸気船を主力とする海軍の強化策を進めると共に、士官教育にあたり、蒸気船海軍の父とたたえられた。

1852年3月に東インド艦隊司令長官に就任、日本開国の指令(ただし発砲は禁止された)を与えられた。同年11月フィルモア大統領の親書を携えてバージニア州ノーフォークを出航した。フリゲート艦ミシシッピ号を旗艦とした4隻の艦隊はカナリア諸島ケープタウンシンガポール香港上海琉球沖縄)・小笠原諸島を経由し、1853年7月8日嘉永6年6月3日)、浦賀に入港した。7月14日(同6月9日)、幕府側が指定した久里浜に護衛を引き連れ上陸、戸田氏栄井戸弘道に大統領の親書を手渡した。ここでは具体的な協議は執り行われず開国の要求をしたのみで、湾を何日か測量した後、幕府から翌年までの猶予を求められ、食料など艦隊の事情もあり、琉球へ寄港した。

太平天国の乱がおこり、米国での極東事情がうつろう中、1854年2月13日(嘉永7年1月16日)に旗艦サスケハナ号など7隻の軍艦を率いて現在の横浜市金沢区の沖に迫り条約締結を求め、3月31日(旧暦3月3日)に神奈川日米和親条約を調印した(詳しくは黒船来航参照)。またその後、那覇に寄港して、同年7月11日、琉球王国とも琉米修好条約を締結した。

帰国した後は遠征記などを記す。晩年はを着用していた。1858年3月4日ニューヨークで死去、64歳だった。墓所はロードアイランド州アイランド墓地にある。日本の版画に描かれたペリー 1854 年頃


人物

日本人に赤鬼(天狗)と呼ばれていたのは当時アルコール依存症だったからだという。

ペリーは浦賀来航の際に幕府に旗を二本贈っているが、旗の種類及び贈った目的は不明。高麗環文書では、「開国か降伏か」を迫る文書を同時に渡したとされている。ペリーの交渉態度が高圧的かつ恫喝的と見られたせいか、砲艦外交と呼ばれる。ただし同文書に記載された内容は当時の状況と矛盾する点が多く、日本史の専門家からは一部の人を除き偽書と判断されている。

ペリーは日本に初めて電信をもたらした。電線を1km程引き、公開実験をおこなった。このとき、「YEDO, YOKOHAMA」(江戸、横浜)と打った。

大変家族思いで、子供たちが兄弟ケンカをしないよう強く戒める手紙を書き残している。

ペリー上陸の地である神奈川県横須賀市久里浜には「上陸記念碑」と「ペリー記念館」が建てられている。
ミシシッピ号


ペリー艦隊

1853年7月8日に江戸湾の浦賀沖に姿を現したペリー率いるアメリカ東インド艦隊の4隻の軍艦。日本人はこれを「黒船」と呼んだ。

旗艦:「サスケハナ」 1850年12月24日フィラデルフィア海軍工廠で竣工

外輪式フリゲート:水線長76メートル、満載排水量3,824トン、乗員300名。

装備 10インチ砲3門、8インチ砲6門


「ミシシッピ」 (綴り:Mississippi )

「プリマス」

「サラトガ」


著作

『日本遠征記』土屋喬雄、玉城肇訳 岩波文庫 (原著は『Narrative of the Expedition of an American Squadron to the China Seas and Japan.』 1856年 アメリカ合衆国第33議会第2会期中特殊刊行物第97)


関連項目

黒船来航

日米修交記念館

幕末の人物一覧



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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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