1513年に、それまでは港町として栄えていたマカオにポルトガル人が初渡来し、明王朝との交易を開始した。その後、1557年にポルトガルが明から居留権を得、中国大陸における唯一のヨーロッパ人居留地となった。ただこの時期のマカオの領有権はポルトガルではなく明にあり、明がマカオに税関を設置するなど主権を有していた。
なお、この前後にカトリック教会の宣教師でイエズス会の創設メンバーの1人であるフランシスコ・ザビエルが、マカオを拠点に東南アジア各地でキリスト教の布教活動を行っていた。
この頃のマカオは、日本が鎖国するまでは長崎との貿易で繁栄を極めた。しかし、その後は明清交替期の動乱や広東(広州)の対外開放により、アジアにおける一大貿易港としてのマカオは次第に衰えていった。
その後発生したアヘン戦争に勝利した結果、イギリスが香港島を獲得すると、ポルトガルも1845年にマカオ自由港の成立を宣言して清の税関官吏を追い出し、タイパ島とコロアネ島を占領し、最終的に1887年にはポルトガルが統治権を獲得し正式に植民地とした。
しかし当時ポルトガルの国力は凋落しており、それに対して世界各国に植民地を保有し隆盛を誇っていた大英帝国の植民地である香港の繁栄により、マカオの貿易港としての地位は全く凋落してしまった。
その後清に代わり中国大陸を支配した中華民国と日本との間に1937年より起きた日中戦争においては、ポルトガル領であることから戦火とは遠い存在であった。
また、その後1941年に起きた第二次世界大戦においてポルトガルは中立国となり、当時東南アジア全体を占領した日本とは交戦状態に入らなかったため、日本軍はマカオを占領せずに駐在武官を置くに止め中立港として機能した。このため、戦火を逃れようとした大量の難民が中国大陸から流れ込んだ。
その後、1949年にソ連の支援を受け中国国民党政府との国共内戦に勝利した毛沢東率いる中国共産党が中華人民共和国を設立し、中国大陸を統治するようになったものの、マカオは依然としてポルトガルの統治が続いた。
しかし、文化大革命さなかの1966年に起きた、中国共産党系小学校増築のいざこざをめぐって起きた中国共産党系住民による暴動鎮圧の際、ポルトガル軍警察が発砲し多数の住民を射殺したため、これに怒った中華人民共和国政府が人民解放軍による軍事侵攻をほのめかしながらポルトガル政府に対して事件の謝罪と以後の中国系住民による統治参加を要求した。これに対して、当時国力が低下し、軍事対立が起きた場合全てを失うと判断したポルトガル政府はそれらの要求をほぼ全面的に呑み、以後中華人民共和国の影響力が増すことになる。
その後、強烈な反共産主義者であったアントニオ・サラザール首相による独裁政権下にあったポルトガル政府が中国国民党率いる中華民国と国交があったのにも関わらず、その植民地であるマカオが単独で中華民国と断交するなど、事実上中華人民共和国政府の間接的統制下に入る。
オテロ・デ・カルバーリョ大尉率いる国軍左派による1974年4月25日のカーネーション革命の後に、ポルトガル政府は民主化され当時所有していた全ての海外領土を放棄する方針を採ることになった。1976年、ポルトガル政府はマカオを特別領として再編成し行政上及び経済上の自治を多くの点で認めた。マカオ市内に残るポルトガル時代の建築
第二次世界大戦後に国力が低下しており、しかも自治が進んだマカオを植民地として統治することに興味を持たなくなったポルトガル政府は即時移譲(返還)を望んだ。しかし、同じく植民地下にある香港市民の動揺を恐れた中華人民共和国政府はマカオの主権を主張しつつ、当分の間のポルトガルによる統治を希望したと言われている。つまり、主権と統治権(行政管理権)を分離したのである。
その後、1984年に行われたイギリスと中華人民共和国の香港返還交渉に続いて、1987年4月13日にポルトガルと中華人民共和国がマカオ返還の共同声明に調印し、マカオの行政管理権は1999年12月20日に中華人民共和国へ返還され、マカオを特別行政区にすることになった。
返還後50年間は現状の保全が取り決められているため、現在もポルトガル統治時の法律の多くがそのまま適用されている。また、これに伴いポルトガル語は中国語と並ぶ公用語とされ、道路表示や看板など、全ての表示にはポルトガル語と中国語の表記が義務付けられているものの、少数のポルトガル系住人を除くほとんどのマカオ住民の使用する言語は広東語である。
南シナ海に面するマカオは、中心地となる半島部と、タイパ島とコロアネ島の間を埋め立ててつなげた島からなる。半島部は、東には珠江(パールリバー)があり、西には西江があり、中華人民共和国の本土の珠海経済特区と隣接している。
1970年代以降に大規模な埋立が行われたため、マカオの地形は概ね平坦であるが、多数ある険しい丘が、元の地形の名残をとどめている。マカオ半島は元々島だったが、徐々に砂州が伸びてゆき、狭い地峡になった。
マカオは高度に密集した都市であり、耕地、牧場、森や林はなく、実質的に農業は殆ど行われていない。