第一次世界大戦直後のロシアは、ロシア革命に対する干渉戦争と内戦の影響により、混沌とした情勢にあった。パリ講和会議の結果により、ポーランド分割以来のロシア国家による支配から独立を果たしたポーランドは、人種的・宗教的影響やかつてのポーランド王国の領域などからベラルーシ西部やウクライナ西部の土地に関心を持っていた。このため、講和会議で得られた領域をさらに東方に拡大し、分割前(1772年8月5日以前)の領土を回復するために、干渉戦争の混乱に乗じ、ソビエト政府との戦争を開始した。1920年当初は、ポーランド軍は、キエフを占領するなど大きく進撃した。しかし、1920年4月以降、赤軍が反撃を開始し、6月にはワルシャワを包囲した。ポーランドはフランスなどから援軍をもらい、そのため、8月末から赤軍は撤退し、10月に停戦することとなった。1921年3月に講和条約が結ばれ、これによりポーランドはリヴィウを中心としたハリチナー地方などウクライナ西部を併合し、東方に大きく領土を広げることとなった。
1918年に第一次世界大戦が終了すると、東欧は大きな変革を迎えることとなった。ドイツの敗北により、ドイツによる東欧の緩衝国家建設計画は不可能となり、またロシアも革命の影響により、他国への干渉能力を失っていた。このため、ベルサイユ講和条約により誕生した東欧の新国家は、弱体な小国家が多かった。その中で、ポーランドは例外的・相対的に大国となりえた。また、かつてポーランド王国として、東欧に広大な領域を保有していたが、ポーランド分割により、その領土は失われたため、領域復活にかける願望を持っていた。ポーランドは、1918年に再独立を果たす際に、ドイツ、オーストリア・ハンガリー帝国、ロシアなどから領土を獲得していた。ただし、東部国境は交渉すべきロシア政府が不在ということもあり、この時点で未確定であった。(ただし、1919年12月には境界としてカーゾン線の提案がなされている。)
ポーランドはユゼフ・ピウスツキを中心に、かつてのポーランド王国領域の復活と、ポーランドを中心とした国家連合によってドイツやロシアと対抗する方針を持っていた。ただし、ポーランドはロシアの政体への干渉やロシアの征服などの意図は持っていなかった。しかしながら、ロシアは歴史上幾度となく直にポーランドの脅威に晒されてきたため同国に対する警戒感情は高く、また革命を機に分離独立を目論む強力な勢力がいくつも「国家」を打ち立てていた旧ロシア帝国領小ロシア(ウクライナ)への干渉の可能性が極めて大きいこともあり、成立間もなく未だ戦時下にあったソ連政権のポーランドとそれに組する反革命勢力に対する警戒は弥増しに増していた。
1919年前半頃は、ロシアで干渉戦争が行われていた。また、フランスの支援を受けて、ポーランド軍の創設が行われている。1919年後半になると、ロシアの革命政府は徐々に白軍に対し有利になり始めた。ロシアは、革命の機運が高まっているドイツと結ぶことも考慮し始め、レーニンやトゥハチェフスキーは、ポーランド攻撃を示唆した事もあった。このことも腹背に非友好国を持つことになるポーランドを刺激していた。
一方、ロシアの政府からの実質的独立を果たしたウクライナでは、ウクライナ民族主義者シモン・ペトリューラの再建したウクライナ国民共和国が、ポーランドに亡ぼされた西ウクライナ国民共和国の残存勢力と共同し、赤軍との間で一進一退の戦闘を継続していた。しかしながら、ウクライナ勢力にとっては不運なことに、1919年10月ウクライナ軍の間でチフスが大流行し、兵力の70%が失われてしまった。これはもはや軍隊ではなく棺桶である、といわれたとされる。ボリシェヴィキーを憎悪し、キエフ・ルーシ以来のウクライナの独立を夢見るペトリューラは、無念の内にウクライナ民族の宿敵ポーランドへの亡命を余儀なくされた。
東部戦線のドイツ軍は1918年より撤退を開始した。ドイツ軍の撤退後には、各地域に共産主義政権が誕生したが、ロシアの革命政府はそれらの共産主義政権と連携することを望んでいた。ただし、各地域の共産主義政権は、小規模で連携が取れておらず、場合によっては対立するなど、東欧は混沌とした状況にあった。1918年11月18日にレーニンはドイツ軍が撤退した地域に向けて赤軍を進出させるように命令を出した。目的は、各地の共産主義政権と連携することのほか、ドイツとオーストリアの革命勢力を支援することにあった。
1919年2月からポーランド軍はフランスの支援を受けて、ロシアを仮想敵とし、軍の編成を開始した。フランスは、ロシアにおいて白軍が不利であったことから、その代わりとしてポーランドを支援することを決定し、400名の士官からなる軍事顧問団をポーランドに派遣した。これにはイギリスの士官も小数加わっていた。フランスの軍事顧問団は、ドイツやロシア、オーストリア・ハンガリーの遺棄機材などを用いて、ポーランド軍の編成を行った。軍事顧問団には、シャルル・ド・ゴールも加わっていた。亡命ポーランド人やポーランド移民で構成され、第一次世界大戦においては西部戦線で義勇兵部隊として戦っていたハラー(J.Hallera)将軍の部隊も、ポーランド軍に加わった。これにより、1919年9月にはポーランド軍は54万人の兵員を有し、うち23万人が東部国境に配置されていた。
1919年2月に、ビリニュスにおいて、赤軍はポーランド民兵部隊を撃破し、当地を占領した。2月半ばにはコブリンからネマン川(ロシア語:ニェーマン川;ポーランド語:ニェメン川)にかけて戦線が構築され始め、また、他の白軍部隊の交戦が激化したため、赤軍はそれ以上の西への進撃は行わなかった。3月にはポーランドも反撃を行い、ネマン川を越えて、リダやスロニムの町に進撃している。また、グロドノやビリニュスでも戦闘が行われ、ポーランド軍が勝利している。10月までにポーランド軍はドヴィナー川まで進撃した。1919年12月の勢力範囲
1919年のポーランド軍の攻撃は概ね順調に推移した、なお、1919年夏頃は、ロシア方面では、ドン地方で強大な勢力を築いた反革命のデニーキン軍がモスクワへの進撃を行っているなど、旧ロシア帝国領域における干渉戦争の影響も大きかった。なお、デニーキンはポーランドの独立に理解を示さなかったために、ポーランド政府や軍との連携は良いものではなかった。これは、デニーキン軍とウクライナ勢力との間でも同様のことであった。