ポーランド・ソビエト戦争
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推移


戦争の開始

東部戦線のドイツ軍は1918年より撤退を開始した。ドイツ軍の撤退後には、各地域に共産主義政権が誕生したが、ロシアの革命政府はそれらの共産主義政権と連携することを望んでいた。ただし、各地域の共産主義政権は、小規模で連携が取れておらず、場合によっては対立するなど、東欧は混沌とした状況にあった。1918年11月18日にレーニンはドイツ軍が撤退した地域に向けて赤軍を進出させるように命令を出した。目的は、各地の共産主義政権と連携することのほか、ドイツとオーストリアの革命勢力を支援することにあった。

1919年2月からポーランド軍はフランスの支援を受けて、ロシアを仮想敵とし、軍の編成を開始した。フランスは、ロシアにおいて白軍が不利であったことから、その代わりとしてポーランドを支援することを決定し、400名の士官からなる軍事顧問団をポーランドに派遣した。これにはイギリスの士官も小数加わっていた。フランスの軍事顧問団は、ドイツやロシア、オーストリア・ハンガリーの遺棄機材などを用いて、ポーランド軍の編成を行った。軍事顧問団には、シャルル・ド・ゴールも加わっていた。亡命ポーランド人やポーランド移民で構成され、第一次世界大戦においては西部戦線で義勇兵部隊として戦っていたハラー(J.Hallera)将軍の部隊も、ポーランド軍に加わった。これにより、1919年9月にはポーランド軍は54万人の兵員を有し、うち23万人が東部国境に配置されていた。

1919年2月に、ビリニュスにおいて、赤軍はポーランド民兵部隊を撃破し、当地を占領した。2月半ばにはコブリンからネマン川ロシア語:ニェーマン川;ポーランド語:ニェメン川)にかけて戦線が構築され始め、また、他の白軍部隊の交戦が激化したため、赤軍はそれ以上の西への進撃は行わなかった。3月にはポーランドも反撃を行い、ネマン川を越えて、リダやスロニムの町に進撃している。また、グロドノやビリニュスでも戦闘が行われ、ポーランド軍が勝利している。10月までにポーランド軍はドヴィナー川まで進撃した。1919年12月の勢力範囲

1919年のポーランド軍の攻撃は概ね順調に推移した、なお、1919年夏頃は、ロシア方面では、ドン地方で強大な勢力を築いた反革命デニーキン軍がモスクワへの進撃を行っているなど、旧ロシア帝国領域における干渉戦争の影響も大きかった。なお、デニーキンはポーランドの独立に理解を示さなかったために、ポーランド政府や軍との連携は良いものではなかった。これは、デニーキン軍とウクライナ勢力との間でも同様のことであった。

和平交渉は1919年中に行われてはいたものの、ポーランドの政治家が強硬であったために、成立しなかった。また、リトアニアが独立の際、ビリニュスを首都予定地とし、ポーランドと交渉を行ったものの、ポーランドはリトアニアに譲歩せず自国領ととしたために、リトアニアとの関係は悪化している。一方、ラトビアとの交渉においてはポーランド軍への協力を得ることに成功しており、さらに翌年にはウクライナ民族共和国との連合にも成功する。


1920年

1920年に入ると、赤軍はデニーキン軍を撃破し、またラトビアやエストニアと平和条約を結ぶことに成功したため、ポーランド方面に赤軍が集中し始めた。1920年1月には70万の赤軍がベレジナ川付近に集中していた。1920年半ばまでに、これは80万人に増強された。このころの赤軍は、ドイツ軍の遺棄兵器や干渉軍から奪取した最新兵器で装備されていた。ポーランド軍は、1920年夏には70万の兵員を有し、兵力は赤軍と同等であったものの、兵站状況が悪く、装備が統一されていないと言う欠点を持っていた。

4月には、ポーランドに亡命していたペトリューラはポーランドとの間にワルシャワ条約を結び、彼の再建したウクライナ国民共和国をウクライナを代表する唯一の政府として認め、互いに単独講和を結ばない、戦後は東ハリチナーをポーランドに割譲するなどを条件に彼の率いる執政内閣(ドィレクトーリヤ)軍がポーランドと共に戦うことになった。ペトリューラは、何よりもまずボリシェヴィキを憎んでおり、それを倒すためであれば、ウクライナの宿敵であるはずのポーランドとの連合も辞さなかった。

一方、ポーランド軍は赤軍の攻勢の前に、先制攻撃を行うことを計画し、4月から進撃を開始した。ポーランド第3軍はペトリューラ軍と共同し、5月7日(または5月6日)にキエフを占領した。しかしながら赤軍は直ちに反撃を行った。北部においては赤軍の反撃は成功し、ポーランド第1軍は大きく後退した。5月24日に、南部のポーランド軍もプジョーンヌイ率いる第1騎兵軍のコサックの攻撃を受けた。6月10日頃までにポーランド軍の敗退は決定的になり、ペトリューラも6月13日(または6月12日)にキエフを放棄して撤退した。

一方、ポーランド軍も撤退を続けたが、戦略予備部隊の不足や重砲の不足とあいまって、整然とした撤退とはならず、壊走に近いものとなった。7月にも、大規模な戦闘があり、激しい戦闘の末、赤軍が勝利し、ポーランド軍はさらに撤退することとなった。ポーランド軍は第一次世界大戦時のドイツ軍の塹壕跡を利用して防御を行ったりしたが、兵力・錬度不足により赤軍に突破された。7月14日にはビリニュスを、7月19日にはグロドノを赤軍が占領した。赤軍の進撃速度は速く、1日に20マイルになることもあった。8月1日には、ブレスト・リトフスクを赤軍第16軍が占領したが、そこのブーク川においてポーランド第4軍は防戦を行い、赤軍を一週間に渡り足止めした。トゥハチェフスキー率いる赤軍の北西正面軍は、8月2日にワルシャワから60マイルの地点に到達している。ハリチナー地方においても赤軍の攻勢でリヴォフなどで戦闘が行われていた。リヴィウ近郊においてポーランド軍は反撃に成功し、赤軍の進撃を足止めした。これを受けて、赤軍は利用可能な部隊をワルシャワ攻撃に集中させることとした。


ポーランド国内の混乱

ポーランド国内のドイツ系住民(大部分は、ドイツから割譲された地域に居住)は、ポーランド軍に対して一貫して非協力的であった。特に、ダンツィヒでは、ほとんどがドイツ人からなる港湾労働者たちが、イギリス・フランス両国から流入する物資のポーランド国内への輸送を妨害・遅延させることに成功した。 物資の供給が滞るようになったことで、ポーランド軍は苦境に立たされていった。


外交

ポーランドの首相S.グラブスキ(S.Grabski)は、7月1日、国家元首、議会(セイム)議長、首相、閣僚3人、軍代表3人、大使10人から成る国防会議に全権を委任した。ポーランド政府の要請により西側の外交官が始めた予備交渉は、ソ連側の拒否にあった。グラブスキ内閣は総辞職し、W.ウィトス(W. Witos)が新首相となった。

ソ連は、7月28日、占領したポーランド地域に共産政権であるポーランド臨時革命委員会(Tymczasowy Komitet Rewolucyjny Polski)を樹立したが、住民の支持を受けなかったために、成功はしなかった。

リトアニアは反ポーランドの姿勢であり、ソ連の圧力と、ビリニュスの確保の目的のために1919年7月にソ連側で参戦した。

フランスは軍事顧問団を派遣するなど、ポーランドを支援していた。1920年にポーランドが危機に陥ると、フランスとイギリスはさらにウェイガン将軍を軍事顧問として派遣した。


ヴィスワ川の奇跡1920年8月の勢力範囲

1920年8月10日より、赤軍のコサック部隊によるワルシャワ包囲のための行動が開始された。トゥハチェフスキー率いる赤軍北西正面軍は、ワルシャワの北部にポーランド軍部隊が少ないことから、主力を北部に集中させ、北西正面軍の左翼は兵力を薄くし、プジョーンヌイの第一騎兵軍にカバーしてもらう心積もりであった。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:Mamenoki