公用語による正式名称は、スペイン語で、Rep?blica de Bolivia(レプブリカ・デ・ボリビア)。公式のケチュア語表記はBulibiya Suyu, 公式のアイマラ語表記はBuliwyaである。通称は、Bolivia。
公式の英語表記は、Republic of Bolivia(リパブリック・オブ・ボリヴィア)。通称は、Boliviaとなっている。
日本語の表記は、ボリビア共和国。通称は、ボリビア。英語のカタカナ表記を使ってボリヴィアとも表記されることがあるが、現地公用語であるスペイン語の発音では b と v の区別が基本的には存在しないので、日本語表記ではボリビアと表記するほうが正確である。公式ではないが、漢字表記としては「暮利比亜」「保里備屋」「玻里非」「波力斐」などが使われる。漢字一文字の略称では「暮国」が使われる事が多い。
独立前はアルト・ペルー(上ペルー、高地ペルー)と呼ばれていたが、独立に際してラテンアメリカの解放者として知られるシモン・ボリバル将軍と、アントニオ・ホセ・デ・スクレ将軍に解放されたことを称えて、国名をボリビア、首都名をスクレ(旧チャルカス)と定めた。
歴史ティワナク文明の遺産2,000年以上昔のインカマチャイの壁画
先コロンブス期の発展
B.C.1500年頃からB.C.250年頃 チリパ文化が栄える。
5世紀から12世紀頃 ティワナク文化が栄える。
12世紀頃から1470年頃 ティティカカ湖沿岸にアイマラ諸王国が栄える。
1470年頃から1532年 アイマラ諸王国がクスコに拠点を置いていた、ケチュア人の皇帝パチャクテクや、トゥパク・インカ・ユパンキの征服によりタワンティンスーユ(インカ帝国)のコリャスーユに編入される。インカ帝国内にてアイマラ諸王国は継続。
スペイン人による征服
1532年 インカ皇帝アタワルパがスペイン人コンキスタドールにより処刑され、インカ帝国崩壊。スペインによる植民地化が始まる。
1535年 フランシスコ・ピサロによりペルー副王領が作られる。また、ディエゴ・デ・アルマグロの遠征軍がアルト・ペルーを探検する。
1538年 ゴンサーロ・ピサロの軍がアルト・ペルーに遠征し、首長アヤビリを降してこの地を植民地化する。
1540年 ラ・プラタ市(後のチュキサカ、チャルカス、スクレ)が建設される。
1545年 ポトシ銀山発見。以降現在のペルーを始めとする諸地域から多くのインディオが鉱山のミタにより、ポトシで強制労働させられることになる。
1548年 アロンソ・デ・メンドーサにより、ティティカカ湖の近くにヌエストラ・セニョーラ・デ・ラ・パス市が建設される。
1559年 チャルカス(現スクレ)に聴問庁(アウディエンシア)が設置される。この頃から独立まで現ボリビアの地域は「アルト・ペルー(高地ペルー、上ペルー)」と呼ばれる。
1559年 東部のチャコ地方にサンタ・クルス・デ・ラ・シエラが建設される。
1569年 ペルー副王フランシスコ・デ・トレドの統治が始まる。銀山採掘のためにポトシは人口十万人を超える都市として発展し(当時のロンドンより大きい)、銀採掘のためにミタ制によりかき集められたインディオは、過酷な労働と病気で次々に死んでいった。
18世紀 ポトシの銀が急速に枯渇する。
1776年 アルト・ペルーがペルー副王領からリオ・デ・ラ・プラタ副王領に転入され、以降経済や司法が副王首府のブエノスアイレスに従属することになる。スペイン本国生まれ(ペニンスラール)の少数支配に反対して現地生まれのスペイン人(クリオーリョ)による反抗運動が起こった。
1778年 ブエノスアイレス港が正式に開港し、以降アルト・ペルーの海外貿易がブエノスアイレスを通じて行われるようになる。
1780年 ペルーでトゥパク・アマルー2世が植民地政府に反乱を起こす。
1781年 ペルーのトゥパク・アマルー2世と呼応して、レパルティミエントやミタ制の重い負担の廃止を求めた、アイマラ族 のトゥパク・カタリによる反乱蜂起があったが、これは鎮圧された。