これを見た欧州各国は一斉に参謀本部を設立し、優秀な参謀将校の育成に狂奔することになった。明治維新の日本政府もフランス軍制からプロイセン軍制に切り替えるべく、モルトケの懐刀と言われるメッケル少佐を陸軍大学校教官に迎え入れて軍制の近代化を目指す。
1871年にプロイセン王ヴィルヘルム1世はドイツ帝国の初代皇帝となり、プロイセン参謀本部はドイツ帝国の参謀本部となる。参謀総長には帷幄上奏権が認められ、参謀総長は事実上、首相や国会に諮ることなく軍事上の決断をすることが可能となり、極めて大きな影響力をもつことになった。これが第一次世界大戦の敗北の芽の1つと見なされている。何故なら軍事的な構想に政治的なコントロールが利かなくなったからである。例えば中立国ベルギーを侵犯する西部攻勢計画のシュリーフェン・プランは、政治家にも海軍の指導部にも知らされることなく唯一の戦争計画となった。
第一次世界大戦に敗北したドイツでは帝政が崩壊してヴァイマル共和国が成立した。共和国政府が戦勝国と結んだヴェルサイユ条約により、兵力は10万人に制限され、航空機、潜水艦、戦車の保有を禁止された。参謀本部も禁止されることとなった。名称も Reichswehr(ドイツ国軍)と改名する。しかし、参謀本部の役割は国防省に設けられた兵務局に偽装して存続させた。
1935年にアドルフ・ヒトラーはヴェルサイユ条約の軍備制限条項を破棄して再軍備を宣言する。ドイツ国軍を国防軍 (Wehrmacht) と改名、陸軍総司令部を新設、偽装名称の兵務局を参謀本部に戻した。参謀本部総長には1933年10月1日から兵務局々長であるルートヴィヒ・ベック中将が就任した。
1938年2月に侵略戦争計画に反対する国防大臣ブロンベルク と陸軍総司令官フリッチュ ( ⇒Werner von Fritsch) を罷免し、ヒトラーは陸軍、海軍、空軍の国防三軍を直接指揮することとし、個人的な参謀部として国防軍最高司令部を設け、総長にヴィルヘルム・カイテル大将を任じた。これが伝統あるドイツ参謀本部の終焉の始まりであった。
プロイセン王国 (1808年 - 1871年)
ゲルハルト・フォン・シャルンホルスト 1808年3月1日 - 1810年6月17日
Karl Georg Albrecht Ernst von Hake 1810年6月17日 - 1812年3月
Gustav von Rauch 1812年3月 - 1813年3月
ゲルハルト・フォン・シャルンホルスト1813年3月 - 1813年6月28日
アウグスト・フォン・グナイゼナウ 1813年6月28日 -1814年 6月3日
カール・フォン・グロルマン 1814年6月3日 -1819年11月
ヨハン・ルーレ・フォン・リリエンシュテルン1819年11月 - 1821年1月11日
カール・フォン・ミュフリンク 1821年1月11日 - 1829年1月29日
Wilhelm von Krauseneck 1829年1月29日 - 1848年5月13日
Karl von Reyher 5月13日 1848年 - 1857年10月7日
ヘルムート・カール・ベルンハルト・フォン・モルトケ 1857年10月7日 -1888年 8月10日
帝政ドイツ (1871年 - 1919年)
ヘルムート・カール・ベルンハルト・フォン・モルトケ 1857年10月7日 - 1888年8月10日
アルフレート・フォン・ヴァルダーゼー 1888年8月10日 - 1891年2月7日
アルフレート・フォン・シュリーフェン 1891年2月7日 - 1906年1月1日
ヘルムート・ヨハン・ルートヴィヒ・フォン・モルトケ 1906年1月1日 - 1914年9月14日