生涯を通じて肺結核に悩まされた病弱の芸術家であり、残された肖像画などからも、赤みがかった頬等、その徴表が見られるが、そうした繊細なイメージとよくマッチした作風のものばかりでなく、そうした自らの中の閉塞感を打破しようとする想いや大国ロシア帝国に蹂躙される故国ポーランドへの想いからか、時として情熱的な作風の曲も多く見られる。幼少の頃からいろいろな面で才能を発揮し、ユーモアにあふれ、ものまねと漫画を書くのが得意で学校ではクラスの人気者だったという。
その作曲のほとんどをピアノ独奏曲が占め、またそれまでの作曲家に見られない、憂愁を帯びた繊細且つ激越な音の使用でピアノの詩人とも呼ばれ、前期ロマン派音楽を代表する作曲家である。ノクターンやワルツなど、今日でも彼の作曲したピアノ曲はクラシック音楽ファン以外にもよく知られており、ピアノの演奏会において取り上げられることが最も多い作曲家の一人でもある。
20歳のとき、ワルシャワで「告別演奏会」を開き、ウィーンへ旅立つ。この時、ショパンの友人がポーランドの土が入った杯を渡したという伝説があるが、これはショパンの伝記を書いた著者の作り話である。後に革命が起こると、ウィーンでは反ポーランドの風潮が高まり、十分な演奏の機会も得られなかったため、パリ行きを決断する。
ウィーン、パリと転々としたが、後半生は大部分をフランスで過ごした。しかし望郷の思いは終生止むことがなく、死後心臓が遺言によりポーランドに持ち帰られ、ワルシャワの聖十字架教会に埋葬された。また決して政治的に革命思想の主とはいえないが、故郷を支配する列強への反発心は若い頃から強く、「美しい花畑の中に大砲が隠されている音楽」(シューマン)と評されることもしばしばである。ジョルジュ・サンドの肖像画(1835年)
若い頃の肖像に見るように美男子であったためか、様々な女性との愛の遍歴も伝説も交えて多々語られることがある。実際彼の場合は、愛情が作曲へと昇華する典型例とも見られる。中でも女流文学家ジョルジュ・サンドとの9年におよぶ交際、劇的な破局の間には『24の前奏曲集』、『幻想曲』、『バラード第4番』、『英雄ポロネーズ』、『舟歌』、『幻想ポロネーズ』等数多くの傑作が生まれた。また同年代に同じくパリで活躍した大ピアニストであったリストとは違って、大ホールでの演奏を好まず、ほとんど行わなかったショパンにとっては、貴族の婦人が主催するサロンでの演奏や、貴族の子弟へのピアノ教授が生きてゆくために必要で、なおかつ心落ち着ける居場所であったであろう。
ピアノの技術革新の時代に生きたショパンは新しい演奏技術の開拓に果敢に挑み、自身の練習の意味も込めて『練習曲集』(『3つの新練習曲』を除く12曲)を2つ編んだ。一方で古典の作曲家への敬意は強く(実際ショパンは自身がロマン派に属するという考えを否定した)、特にバッハとモーツァルトは彼の作品に影響を及ぼした。例えば『24の前奏曲集』は5度循環で24の全長短調を経る小品集だが、これは明らかにバッハの『平均律クラヴィーア曲集・24の前奏曲とフーガ』を意識したものである。また心を落ち着けるためにバッハの平均律をしばしば好んで弾いた。
大曲よりは小品を好んで作曲した。多楽章作品は数える程しかない。これはピアノという表現手段にもっとも適合的な音楽形態は何であるかを、ショパンなりに熟考した結果とも考えられよう。ピアノ協奏曲に関しては評価が2つに分かれる。
ショパンの作品にはいろいろと逸話のあるものが多く、それらの中にはきちんと確証の持てないものも多い。また彼自身は同時代の有名な作曲家にして評論家でもあったシューマンとは違い、批評活動は全く行わず、音楽作品と文筆作品(ことに詩)との融合にもあまり積極的ではなかったという(その点をとらえて、ショパンはロマン派ではないとする見解もある)。
きちんとした写真がほとんど残されておらず、死の直前にルイ=オーギュスト・ビソンの手によって撮られた写真が有名である(もう一枚現存する ⇒1846年の写真は損傷が激しい)。
ショパンは、数多くのピアノの作品を残したが、その中には未知の作品や、原稿消失作品が複数あることが確認されている。
生涯ショパン(ドラクロワ画)。当初はジョルジュ・サンドと二人で一枚に書かれた絵だったが、彼らの交際の破局から二枚に分割され、ショパンはルーヴル美術館蔵、サンドの部分はコペンハーゲンのデンマーク王立美術館に所蔵されているショパンの墓