歴史上、フェミニストと名乗る女性は数多く存在する。フェミニズムの起源は18世紀のフランスに遡る。1789年にフランス革命によりフランス人権宣言が採決されたが、その権利を男性にのみ与えていることを問題視した女性が抗議運動を行い、欧州各地で女性の権利を求める運動が定着した。これがフェミニズムの誕生である。91年『人権宣言』に対抗しオランプ・ド・グージュが『女性及び女性市民の権利宣言』を発表している。代表的なフェミニズム作家メアリ・ウルストンクラフトが『女性の権利の擁護 』を執筆したのはこの翌年である。[1]こうした運動は反フェミニズムの反対を受けるが、徐々にヨーロッパ中に浸透していく事となる。
18世紀以前は一部の上流階級を除いて、女性は男性と等しく農作業・商・手工業などの労働に就いていたが(日本の田舎では都会で専業主婦が広まってからも女性が農業や漁業などの労働に従事していたように)、産業革命の影響で労働に就いていた中流、下流階級の女性は専業主婦となる事を強いられた。20世紀には「結婚して子供を持つ郊外住宅の主婦」が女性の憧れの的とされた。この背景には戦中に若い男性がいない為に工場で労働に従事していた女性を再び家庭に戻そうとするアメリカ政府のプロパガンダがあった。[2]日本も例外ではなく、戦中は男性不足のため若い女性は工場で軍需産業などの労働を強いられていたが、戦後はアメリカ型の専業主婦となる事を余儀なくされた。しかし、家庭に戻った女性は結婚し子供を育てるだけの人生に不満が募っていた。フェミニストの1人である ベティ・フリーダンは『女らしさの神話』の中で当時の女性の心境をこう現している。
郊外住宅の主婦、これは若いアメリカの女性が夢に見る姿であり、また、世界中の女性がうらやんでいる姿だといわれている。 しかし、郊外住宅の主婦たちは、密かに悩みと戦っていた。ベッドを片付け、買い物に出かけ、子供の世話をして、 1日が終わって夫の傍らに身を横たえたとき、『これだけの生活?』と自分に問うのを怖がっていた。
1960年代からウーマン・リブ運動が世界中に広まり、ニューヨークなど各地で数十万規模のデモが発生した。この運動により後に多くの国で女性の労働の自由が認められるようになった。[3]これを境にフェミニズムは殆どの国で政治、文化、宗教、医療といったあらゆる分野で取り入れられるようになる。
このウーマン・リブは女性を拘束しているとする家族や男女の性別役割分担、つくられた「女らしさ」、更にはこの上に位置する政治・経済・社会・文化の総体を批判の対象にしていた。 日本でも1970年代に各地でウーマン・リブの集会が開かれ運動の拠点も作られた。またこの頃、ピル解禁を要求する「中ピ連」が結成された。
ウーマン・リブ運動の高揚を受けた国際連合は、1972年の第27回国連総会で1975年を国際婦人年と決議し、メキシコで国際婦人年世界会議(1975年)を開催して「世界行動計画」を発表した。続いてコペンハーゲン会議(1980年)、ナイロビ会議(1985年)、北京会議(1995年)などが開催された。
日本では国際婦人年を契機として様々な組織が生まれ、婦人差別撤廃条約の批准や国内法の整備を求める運動へと加速した。
18-20世紀前半の、西欧における「女性解放運動」
1970年代に広まった最も一般的なフェミニズム。男女平等は法的手段を通して実現可能で、集団としての男性と闘う必要はないと主張する。ジェンダー・ステレオタイプ、女性蔑視、女性の仕事に対する低賃金、妊娠中絶に関する制限などを男女不平等の原因と考える。詳しくはリベラル・フェミニズムの項を参照。
1791年、「女性と市民の権利宣言」(オランプ・ド・グージュ)
1792年、『女性の権利の擁護』(メアリ・ウルストンクラフト)
1869年、『女性の隷従』(ジョン・スチュアート・ミル)
※リベラル・フェミニズムを、「男並みの女」になることを求めるだけのものとして批判するフェミニストもいる。
20世紀後半に生まれた、さまざまなフェミニズムの潮流
資本主義が女性を抑圧する原因だと考える。資本制的生産様式では男女不平等は決定しているとみなし、女性を解放する方法として資本主義の解体に焦点を合わせる。詳しくはマルクス主義を参照。
1972年、『家事労働に賃金を』(マリア・ダラ・コスタ)
1984年、「シャドウ・ワークか家事労働か」(クラウディア・フォン・ヴェールフォーフ)
明治維新からは女性解放政策が打ち出されたが、反発も起こり十年ほどで急速にしぼんでしまう。
推進政策
1869年、関所を女性が自由に通行できるようになる。また津田真一郎(津田真道)という刑法官が女子売買の禁止の健白書を政府に提出。
1871年、津田梅子ら五人の少女が岩倉使節団で米国へ留学する。
1872年、芸妓と娼妓の無条件解放が布告される。(公娼制度は残された)。女学校ができた。
1873年、妻からも離婚訴訟が出来るようになる。女子伝習所(女子のための職業訓練所)が開設される。
1874年、東京女子師範学校が設立される。
反発政策
1885年、第一次伊藤博文内閣の文部大臣森有礼が「良妻賢母教育」こそ国是とすべきであると声明。翌年それに基づく「生徒教導方要項」を全国の女学校と高等女学校に配る。
1890年7月公布の「集会及政治結社法」にて女性の政治活動を禁止。女子は政談演説を聴きに行くことも禁じられ、戸外で三人以上集まる時は警察に届けなければならなくなった。
日本初の女性参政権
1878年(明治11年)、区会議員選挙で楠瀬喜多という一人の婦人が、戸主として納税しているのに、女だから選挙権がないことに対し高知県に対して抗議した。