資本主義が女性を抑圧する原因だと考える。資本制的生産様式では男女不平等は決定しているとみなし、女性を解放する方法として資本主義の解体に焦点を合わせる。詳しくはマルクス主義を参照。
1972年、『家事労働に賃金を』(マリア・ダラ・コスタ)
1984年、「シャドウ・ワークか家事労働か」(クラウディア・フォン・ヴェールフォーフ)
明治維新からは女性解放政策が打ち出されたが、反発も起こり十年ほどで急速にしぼんでしまう。
推進政策
1869年、関所を女性が自由に通行できるようになる。また津田真一郎(津田真道)という刑法官が女子売買の禁止の健白書を政府に提出。
1871年、津田梅子ら五人の少女が岩倉使節団で米国へ留学する。
1872年、芸妓と娼妓の無条件解放が布告される。(公娼制度は残された)。女学校ができた。
1873年、妻からも離婚訴訟が出来るようになる。女子伝習所(女子のための職業訓練所)が開設される。
1874年、東京女子師範学校が設立される。
反発政策
1885年、第一次伊藤博文内閣の文部大臣森有礼が「良妻賢母教育」こそ国是とすべきであると声明。翌年それに基づく「生徒教導方要項」を全国の女学校と高等女学校に配る。
1890年7月公布の「集会及政治結社法」にて女性の政治活動を禁止。女子は政談演説を聴きに行くことも禁じられ、戸外で三人以上集まる時は警察に届けなければならなくなった。
日本初の女性参政権
1878年(明治11年)、区会議員選挙で楠瀬喜多という一人の婦人が、戸主として納税しているのに、女だから選挙権がないことに対し高知県に対して抗議した。しかし県には受け入れてもらえず、喜多は内務省に訴えた。そして1880年(明治13年)9月20日、日本で初めて(戸主に限定されていたが)女性参政権が認められた。その後、隣の小高坂村でも同様の条項が実現した。
この当時、世界で女性参政権を認められていた地域はアメリカ合衆国のワイオミング準州や英領サウスオーストラリアやピトケアン諸島といったごく一部であったので、この動きは女性参政権を実現したものとしては世界で数例目となった。しかし4年後の1884年(明治14年)、日本政府は「区町村会法」を改訂し、規則制定権を区町村会から取り上げたため、町村会議員選挙から女性は排除された。
政府の反発政策に対して平塚雷鳥ら女性解放運動家が誕生し、政治的要求を正面に掲げた最初の婦人団体である「新婦人協会」もできる。女性に不利な法律の削除運動、女性の参政権獲得運動などがさかんになる。完全な女性参政権の獲得と言う大目標の達成には至らなかったが、女性の集会の自由を阻んでいた治安警察法第5条2項の改正(1922年・大正11)や、女性が弁護士になる事を可能とする、婦人弁護士制度制定(弁護士法改正、1933年・昭和8)等、女性の政治的・社会的権利獲得の面でいくつかの重要な成果をあげた。
『青鞜』運動
母性保護論争(平塚雷鳥、与謝野晶子、山川菊栄)
第二次世界大戦前から一部では女性の選挙参加も認められており、日本における女性解放がすべて占領後の産物であったわけではない。
GHQによる男女平等政策
ウーマンリブ運動
エコ・フェミ論争
1980年代、「女の時代」マル・フェミ(上野千鶴子ら)
「従軍慰安婦」問題
男女共同参画社会
男女雇用機会均等法の歴史
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1970年代に米国で誕生。家父長制に真っ向から立ち向かい、公的領域のみならず家庭や男女の関係までも含む私的領域に至るまで「人間」という曖昧な概念を問い直す。つまり、「人間」というコトバに潜む男性中心性(あらゆる場面において男性が標準として扱われる事)の見直しを図る。また、女性の性的快楽の解放、強制異性愛への批判、レズビアンの権利獲得、性的暴力及びポルノグラフィーの糾弾を行う。ラディカル・フェミニストは、フェミニズムは女性を男性中心の社会から解放するための手段と見なす。
1970年、『性の政治学』(ケイト・ミレット)
1970年、『性の弁証法』(シュラミス・ファイアストーン)
1980年、「強制的異性愛とレズビアン存在」(アドリアンヌ・リッチ) - レズビアン・フェミニズム
1978年、『女/エコロジー』(メアリ・デイリ) - スピリチュアル・フェミニズムまたはカルチュラル・フェミニズム
エコ・フェミニズムとも。男性による自然支配と女性支配を同根と定め、自然保護の立場から戦争、女性への暴力、女性支配、先住民への差別、環境破壊に反対する。
1978年、『女性と自然』(スーザン・グリフィン)
1980年、『自然の死』(キャロリン・マーチャント)
1994年、『フェミニズムとエコロジー』(青木やよひ)