フィデル・カストロ
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アメリカとの対立とソ連との友好関係1959年にアメリカを訪れたカストロ1960年の国連総会を訪れたカストロ

1959年1月の革命により全権を掌握すると、アメリカ合衆国は直ちにこれを承認、カストロは2月に首相に就任する。しかしながら新政府はアメリカ企業の財産を没収、国有化の政策を行い、アメリカとの関係は日増しに悪化する。カストロは4月にホワイトハウスを訪れ、副大統領リチャード・ニクソンと会談する。ドワイト・D・アイゼンハワー大統領は「ゴルフ中」であったという弁解を行ったことからも、当時アメリカがカストロを軽視していたことが窺える。

同年12月に、アメリカ国家安全保障会議は「容共的かつアメリカにとって不利益をもたらす」としてカストロ政権転覆を決定。シーザー暗殺に因んで「ブルータス作戦」と呼ばれた。いわゆる「ピッグス湾事件」もこれに含まれる。その後もパティー作戦、リボリオ作戦、AM-LASH作戦と次々に暗殺計画が立案されるが、全て失敗に終わった。

キューバ国内のアメリカ系石油精製所が石油の供給を拒否し、キューバは1960年2月にソ連から石油を購入する協定に署名した。アメリカはキューバと国交断絶し、アイゼンハワー政権の間にキューバはソ連との関係を深める。カストロとニキータ・フルシチョフ首相との間で様々な協定が調印され、キューバはソ連から大量の経済・軍事援助を受け取り始めた。

フルシチョフの回想録によると、彼は1962年の春にクリミア半島で休暇をすごしている間に、アメリカの攻撃に対する抑止力としてキューバにミサイルを配置するという考えを思いついた。フルシチョフはこの考えを現実化するためにラウル・カストロ率いるキューバの代表団と会談し、ソ連製核ミサイルがキューバに配備されはじめた。アメリカのU-2偵察機が1962年10月15日にミサイル発射装置の建設を発見し、アメリカ政府は1962年10月22日にその事実を公表、キューバに向かう船舶の臨検を行い海上封鎖を実行する(キューバ危機)。

フルシチョフはアメリカがトルコからミサイルを撤去するのと引き替えにキューバからミサイルを撤去することに合意した。緊張が緩和された後もキューバとアメリカの対立は決定的なものとなった。カストロは、アメリカを敵視する一方で、アメリカと妥協したソ連に対しても不信感を募らせた。ただしソ連との友好関係は、キューバの重要な政策であったから、断交にまでは至らず、フルシチョフ失脚後のチェコ事件によるソ連軍侵攻に理解を示し、カストロはソ連に対する不信感を解消した。しかし、このようなソ連への態度が、チェ・ゲバラとの決別の大きな要因になった。

その後1990年代に入りソ連が崩壊し、冷戦が終結したことによってソ連との関係は薄れたものの、アメリカとの関係についてはキューバ側が積極的に関係改善を目指してはいるが、その後も今に至るまでフロリダ州などを中心に大きな影響力を持っているキューバ系アメリカ人財団など反カストロ派キューバ人のロビイストの影響を受けているアメリカの保守派が経済制裁を解こうとせず、かたくなな態度に終始している。


中南米諸国との関係左からエルサルバドルのファラブンド・マルティ民族解放戦線 ( ⇒FMLN) リーダー、シャフィク・アンダル ( ⇒Schafik Handal) 、ベネズエラチャベス、カストロ、ボリビアモラレス

1971年には米州機構の慣例にもかかわらず、社会主義者のサルバドール・アジェンデが大統領となったチリがキューバと外交関係を再確立する。カストロはチリへの1ヶ月にもわたる訪問を行った。訪問中にアジェンデ大統領との大きな関係と公的な助言を与え、西側諸国からは「チリの社会主義化への道」と見なされた。

その後1990年代初頭の冷戦終結まで、アメリカの後押しを受けた軍事独裁政権がその大勢を占めた殆どの中南米諸国と関係が悪かったものの(メキシコなど一部の国としか交流がなかった)、冷戦終結に伴う軍事独裁政権の崩壊後は、ペルーなど多くの国と国交を回復した。

また、中南米諸国に対しまるで宗主国さながらに振る舞い続けるアメリカの外交政策と、アメリカによる軍事独裁政権へのあからさまな後援を嫌う多くの中南米の多くの国民からは、カストロのアメリカへかたくなに対抗する姿が、容共、保守の別を問わず、内外で高い共感を得ているといわれている。


ヨーロッパ諸国・カナダとの関係

1976年、当時のカナダ首相ピエール・トルドーはアメリカによる経済封鎖にもかかわらず西側諸国の政治的指導者として初のキューバ公式訪問を行い、カストロと抱擁を交わした。トルドーはカナダからの支援として400万ドルを提供し、1,000万ドルの融資を行った。トルドーはそのスピーチで「フィデル・カストロ国家評議会議長の長命と、キューバ、カナダ両国民の友情を祈る」と話した。

トルドーとカストロの友情はその後も続き、トルドーは退任後も1980年代から90年代にかけてキューバを数度訪れている。カストロは2000年のトルドー死去時、葬儀に参列するためモントリオールを訪れている。


中華人民共和国との関係

革命直後、同じ社会主義国家である中国との友好を図り、ゲバラらが中国を訪問し毛沢東らと会見しているが、中ソ論争が激しくなるとソ連寄りのキューバと中国との関係は悪化し、さらに中国は貿易問題と政治問題を結びつけてきたためカストロは中国政府を「強盗」と批判し、以後は対立関係にあった。

1970年代に起きたアンゴラ内戦ではキューバが政府側を支援して派兵したのに対し、中国はアメリカ合衆国と共同で反政府側を支援した。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:Mamenoki