カストロはスペイン移民で裕福な農場主アンヘル・カストロ・イ・アルギツの息子としてマヤリの近くのビランで生まれた。ハバナの私立小学校コレヒオ・ベレンを始めとするイエズス会の学校で教育を受け、野球に熱中した。1944年には最優秀高校スポーツ選手に選ばれ、1945年にはハバナ大学に入学し法律を学ぶ。大学では政治活動に参加、革命反乱同盟(UTR)に加入する。ギャングにも身を置き、敵対する学生運動のリーダーを射殺するなど「ゴロツキと天才が同居した男」と、周囲から呼ばれた。
在学中の1948年には、投手としてアメリカのメジャーリーグ選抜と対戦、3安打無得点に抑える。1950年に大学を卒業した。
卒業後、1950年から1952年の間に弁護士として貧困者のために活動。カストロはオルトドクソ(保守)党から1952年議会選挙に立候補したが、フルヘンシオ・バティスタ将軍の率いるクーデターはカルロス・プリオ・ソカラスの政府を倒し、選挙の結果は無効となった。その後、カストロは憲法裁判所にバティスタを告発した。しかし請願は拒絶され、カストロは裁判所を糾弾した。
この後カストロは武装勢力を組織し、1953年7月26日に、130名の同志とともにオリエンテ州のモンカダ兵営に対する攻撃を行った。攻撃者の80人以上が死に、カストロは逮捕され裁判で、カトリック司教の仲裁で死刑は免れたが、懲役15年が宣告され投獄される。獄中ではホセ・マルティなどを愛読、「歴史は私に無罪を宣告するだろう」を発刊する。1955年5月に恩赦によって釈放され、2ヶ月後にメキシコに亡命、後にアメリカに移り活動を続けた。
1956年12月、60フィートのプレジャーヨット、グランマ号でメキシコから多くの他の亡命者と共に秘密裏にキューバへ帰国した。それらは「7月26日運動」と呼ばれた。その時点でカストロはまだ共産主義者あるいは社会主義者ではなかった。キューバ革命後の1959年後半にカストロはアメリカの新聞に「どんな産業も国有化する意図はなかった」と語った。
「7月26日運動」の最初の行動は1956年12月2日にオリエント州で始まった。しかし激しい戦闘でオリジナルの80人のうちの18人だけが生き残りシエラ・マエストラ山地へ退き、そこからバティスタ政府とのゲリラ戦を再開した。生存者の中には革命後に閣僚となるチェ・ゲバラ、ラウル・カストロ、またカミロ・シエンフェゴスが含まれていた。カストロの運動は民衆の支援を獲得し、800人以上の勢力に成長した。1958年5月24日にバティスタはカストロの軍に対して17の大隊を送り出した。数字の上で圧倒されていたにもかかわらず、カストロの軍隊は政府軍兵士の多くの軍務放棄によって、一連の勝利を成し遂げた。1959年の元日、カストロの軍隊は首都ハバナ近郊に迫り、バティスタと次期大統領カルロス・リベロ・アグエロは国外逃亡し、カストロの軍はハバナを指揮下に置いた。
他の社会主義政権の元首に見られるような、自身の巨大な肖像写真や銅像を一切作らせていない。これは、前政権の独裁者バティスタと同一視されるのを忌避するためと言われている。ただし、革命の同志であるチェ・ゲバラの巨大な銅像をサンタ・クララに建てている。
アメリカとの対立とソ連との友好関係1959年にアメリカを訪れたカストロ1960年の国連総会を訪れたカストロ
1959年1月の革命により全権を掌握すると、アメリカ合衆国は直ちにこれを承認、カストロは2月に首相に就任する。しかしながら新政府はアメリカ企業の財産を没収、国有化の政策を行い、アメリカとの関係は日増しに悪化する。カストロは4月にホワイトハウスを訪れ、副大統領のリチャード・ニクソンと会談する。ドワイト・D・アイゼンハワー大統領は「ゴルフ中」であったという弁解を行ったことからも、当時アメリカがカストロを軽視していたことが窺える。