大統領選挙中は中道路線。当選後はリベラル派。1994年の中間選挙以後は中道路線と政策の一貫性のなさがしばしば批判の対象にされる。中道で時によってはリベラルなスタンスを打ち出すポピュリストとも呼ばれる。急進リベラルからは歴代の民主党政権の中では最も保守的とされたが、一方で保守派からは「社会主義者」と呼ばれる。
経済最優先を掲げたクリントン政権はその当初から経済政策に力を入れる。アメリカ経済の中心を重・鉱工業からIT・金融に重点を移し、第二次世界大戦後としては2番目に長い好景気をもたらし、インフレなき経済成長を達成した。また1994年のギングリッジ率いる共和党が上下院を奪還すると、共和党のお株を奪うべく、財政赤字削減に動き出す。アラン・グリーンスパンFRB議長の助言の下に、均衡財政をめざし、巨額の財政赤字を解消して、2000年には2300億ドルの財政黒字を達成した。これらの経済政策は、ロナルド・レーガン政権で行われたレーガノミックスに対し、クリントノミックスと呼ばれる。
教育を重視し、学校へのPC導入など、IT教育を推進した。その他、就学前児童の早期教育プログラムの拡大、移民の英語教育の充実を図った。後期には「強いドル」政策を実行し、他国の通貨に対してドル高を維持し、海外からの投資を呼び込んだ。また、アル・ゴアの提唱した「情報スーパーハイウェイ構想」を推進し、IT産業の育成と、IT化による生産性向上(ニューエコノミー)を押し進めた。
税制では、レーガノミックスで引き下げられた高額所得者の所得税率を引き上げた。また、『忘れ去られた中間層』というキャッチフレーズの下、中間層の減税を実施し貧困層をターゲットにした民主党の方針を大幅に転換した。国民健康保険のような制度が整備されていないため高額な国民の医療費負担を改善させるための制度を導入しようと試みたが、民間保険会社や企業などからの法案反対活動で成立させることは出来なかった。
クリントン時代を通じた空前の好景気の背景には、冷戦から解放された資源が民需に回ったことによる「平和の配当」や民間企業のIT化推進があり、また共和党レーガン・ブッシュ時代の知的財産権重視や大規模減税、市場原理強化政策の効果が徐々に現れてきたことが大きい。
これらの背景の下、FRBの金融緩和、重厚な経済スタッフを配置しての財政再建およびドル高容認などによる「金利の低下」など、諸々の政策手段によって好況を演出した経済政策をはじめ、全般的に内政の評価は高い。
外交1995年、カナダノバスコシア州ハリファックスでの先進国首脳会議にて1998年11月19日、東京都での晩餐会にて内閣総理大臣小渕恵三(右)と1998年11月20日、日米首脳会談にて1999年6月18日、第25回主要国首脳会議に併せて行われた日米首脳会談での記者会見にて1999年6月19日、第25回主要国首脳会議にて2000年、沖縄県名護市の万国津梁館での第26回主要国首脳会議(九州・沖縄サミット)にて
ブッシュ政権が国内問題・経済問題を軽視していると批判し、ホワイトハウスに上り詰めたクリントンだったがその公約の通り、外交は不得意分野だった。彼の政治キャリアはアーカンソーの地方政治に限定されており、また彼が頼りにすべき民主党も外交に関する人材は不足していた。その外交姿勢は、場当たり的だという批判にさらされている。政権の後期には、外交に力を入れ、中東和平や朝鮮半島問題などに尽力したが、さしたる成果のないまま時間切れに終った。
北米地域では、アメリカ合衆国、メキシコ、カナダが自由貿易圏をつくり、関税障壁をなくすというNAFTA(北米自由貿易協定)に調印した(1994年1月1日発効)。
経済関係においては、歴代政権と違い親中華人民共和国の傾向が強く、今後の主要な貿易相手国としての重要性を認める一方、日本や中華民国(台湾)などの同盟国には貿易問題などで厳しい態度を取った。1998年の中華人民共和国訪問時には、江沢民総書記(当時)との会談で「台湾の独立不支持、二つの中国及び一中一台の不支持、台湾の国連等国際機関への加盟不支持」を表明し、台湾だけでなくアメリカ国内の保守派からも大きな非難を浴びた。日本政府に対しては減税や銀行への公的資金の投入、スーパー301条に基づいた市場開放を高圧的に内政干渉にも近い形で要求し、当時の橋本首相さえも激怒したという。