日本は第一次世界大戦への参戦に際して、山東半島の旧ドイツ権益を獲得した。日本は同大戦中の所謂対華21ヶ条要求を通じて、中華民国の袁世凱政権に対し、同権益の日本の継承を認めさせた。
一方、袁世凱政権自身も、幾分か名目的なものではあるものの、連合国の勝色が濃厚となった段階で同盟国側に対して宣戦布告をしており、この会議にあたっては中国代表として顧維鈞を派遣し、戦勝国としての待遇を求め、山東半島権益の返還を求めていた。
そして門戸開放政策を主張するアメリカも日本による権益の独占に反対しており、会議における争点の一つとなった。
結果としてはヴェルサイユ条約において日本は山東半島の旧ドイツ権益の継承は認められたものの、中国では五四運動が起こり、中国はこれを不満として調印しなかった。また権益を得られなかったアメリカでも対日感情が悪化し、日系移民排斥にいっそう拍車がかかることになる。
ウィルソンアメリカ合衆国大統領の14か条によって提案されたもので、ヴェルサイユ条約によって成立した。しかし、アメリカ合衆国自身は、議会の反対により国際連盟に参加しなかった。
詳細は国際連盟を参照
日本の代表団は国際連盟の規約に人種差別撤廃条項を加えるよう提案した。これは「人種あるいは国籍如何により法律上あるいは事実上何ら差別を設けざることを約す」というもので、国際会議において人種差別撤廃を明確に主張した国は日本が世界で最初である。
英豪などが反対する中、出席者16名中11名の賛成多数を得たが、議長を務めた米国は突如として全会一致を主張、多数決を無視して本提案を退けた。この拒絶を受け、日本は欧米白人社会、特にアメリカに対する不信感を強める事になる。両国の対立感情はその後の太平洋戦争(大東亜戦争)への呼び水となった。
詳細は人種的差別撤廃提案を参照
ともあれ、この会議によって一連の関連条約が結ばれ、第一次世界大戦は終戦することになる。
これ以降ヨーロッパにおいてはヴェルサイユ体制と呼ばれる秩序が、第二次世界大戦前まで続くことになる。
この体制の維持には、ワシントン体制の維持と同様に社会システム論に基づく蝶番国家であるアメリカの経済が順調であることが必要条件であった。 具体的には、アメリカは
ドイツに対して財政面、物資面での援助を行い、それを元にドイツは連合国に対して賠償金を支払い、アメリカが連合国からの戦債を回収する
軍事費に苦しむ日本に対して、融資を行うとともに軍備削減を要求する
というものである。
従って、ヴェルサイユ・ワシントン体制は1929年のアメリカの金融恐慌を機に崩壊していくことになる。
参考文献
NHK取材班 編『日本の選択1 理念なき外交 「パリ講和会議」』(角川文庫、1995年) ISBN 4-04-195403-7
マーガレット・マクミラン 著\稲村美貴子 訳『ピースメイカーズ 1919年パリ講和会議の群像』上、下(芙蓉書房出版、2007年)
上 ISBN 978-4-8295-0403-1、下 ISBN 978-4-8295-0404-8
下斗米伸夫・五百旗頭真 編『二十世紀世界の誕生 両大戦間の巨人たち』(情報文化研究所、2000年) ISBN 4-7952-8238-2
イアン・ニッシュ 著\関静雄 訳『戦間期の日本外交 パリ講和会議から大東亜会議まで』(ミネルヴァ書房日本史ライブラリー、2004年) ISBN 4-623-04074-7
関連項目
第一次世界大戦の講和条約
ブレスト・リトフスク条約 - 中央同盟国対ロシア帝国
ヴェルサイユ条約 - 対ドイツ帝国
ヌイイ条約 - ブルガリア王国
サン=ジェルマン条約 - 対オーストリア第一共和国(オーストリア・ハンガリー帝国)
トリアノン条約 - 対ハンガリー王国(オーストリア・ハンガリー帝国)
セーヴル条約 - 対オスマン帝国
国際連盟
ヨーロッパにおける民族自決 (1920年)
表・話・編・歴第一次世界大戦 - "War to End All Wars"
経過
戦線西部戦線 - 東部戦線 - イタリア戦線 - 中東戦線 - アジア太平洋戦線 - アフリカ戦線