総当り回数
1950-1951年 20回(*2)
1952年 18回(予選:全チーム)+4回(決勝:上位4チーム)(*4)
1953-1955年 20回
1956-1957年 22回
1958-1962年 26回
1961年 28回
1958-1962年 26回
1965年 28回
1966-1996年 26回
1997-2000年 27回(*1)
2001-2003年 28回
2004年 27回(*1)(*3)
2005-2006年 20回 + 交流戦(対セ・リーグ6チーム)6回
2007年- 24回 + 交流戦(対セ・リーグ6チーム)4回
※1952年のフランチャイズ(ホームタウン)制度が採用後はホーム・アンド・アウェー方式で、原則それぞれ半分ずつの試合を行う。(*1)1997年-2000年と2004年は総当りが奇数回となるため、対戦カードのどちらか一方がホームゲームを1試合多い14試合を行う形だった。(*2)1951年は同年10月20日より開催の日米野球に伴う日程上の都合で同月7日限りで公式戦打ち切り公式戦を終了した。(*3)2004年はプロ野球ストライキのために2試合を残して公式戦を終了した。(*4)1952年度については最終順位の変動をきたす恐れのある試合については再試合をするという取り決めがあった。引き分け再試合制度実施年:1952(*4)、55、59-60、62、66-68年引き分けを0.5勝とみなして勝率を算出した年:1956-58、61年
1975年のシーズンから、指名打者制度(DH制)が採用されている。
年内容
1950、1951年シングルは時間・回数制限なし。(デーゲームは日没まで)
ダブルヘッダー(以下ダブルと略す)第1試合の延長は原則として12回まで。但しナイトゲーム(薄暮含む)は9回まで
1952年変則ダブル第1試合は9回まで。それ以外は時間・回数無制限
1953年シングルでのデーゲームの場合は時間・回数制限なし。(日没まで。1970年まで同じ)
変則ダブル第1試合は12回まで。ナイトゲームは23:45を過ぎて次のイニングに入らない
1954年ダブル第1試合は延長12回まで(回数制限は1958年まで同じ)
ナイトゲームは22:45を過ぎて次のイニングに入らない
1955-1958年ナイトゲームは22:15を過ぎて次のイニングに入らない
1959、1960年ダブル第1試合は9回まで(延長戦なし)
ナイトゲームは22:30を過ぎて次のイニングに入らない(時間制限は1964年まで同じ)
1961-1964年ダブル第1試合は延長12回まで(回数制限は1965年も同じ)
1965年ナイトゲームは22:15を過ぎて次のイニングに入らない(時間制限は1967年まで同じ)
1966、1967年ダブル第1試合は延長11回まで
1968-1970年ダブル第1試合は延長12回まで
ナイトゲームは22:20を過ぎて次のイニングに入らない
1971-1973年ダブル第1試合は延長11回まで
それ以外の試合(ダブル第2試合含む)は試合開始から3時間20分を過ぎて次のイニングに入らない。但し19時以後開始の試合については経過時間に関係なく22:20を過ぎて次のイニングに入らない(但し9回を満たさずに時間が来た場合であっても、9回までは必ず試合する)
1974-1987年ダブル第1試合は9回まで。
それ以外の試合は原則として試合開始から3時間を経過して次のイニングに入らない。但し19時以後開始の試合は経過時間に関係なく22時を過ぎて次のイニングに入らない(但し9回を満たさずに時間が来た場合であっても、9回までは必ず試合する)
1988、1989年ダブル第1試合は9回打ち切り。
それ以外は原則として延長12回、若しくは試合開始(開始時刻に関わらず)から4時間を経過した場合は12回に満たなくても次のイニングに入らない(但し9回を満たさずに時間が来た場合であっても、9回までは必ず試合する)
1990-1993年延長12回まで(試合開始(開始時刻に関わらず)から4時間を経過した場合は12回に満たなくても次のイニングに入らない また9回を満たさずに時間が来た場合であっても、9回までは必ず試合する)
1994年-延長12回まで(時間制限なし)
備考
1952年度は予選リーグ終了後、上位4チームによる決勝リーグを開催した。
1973年-1982年度は前後期の2シーズン制とし、各ステージの優勝チームによるプレーオフ(5戦3勝制)で年間優勝チームを決定した。
2004年以降は予選リーグの上位3チームが決勝トーナメントを行う。詳細はプレーオフ制度 (日本プロ野球)・パシフィック・リーグの項を参照。しかし、2006年は1位~3位と4位〜6位の、ロッテ、オリックス、楽天との差が大きく開いて、日本ハム、西武、ソフトバンクの上位3球団の レギュラーシーズン1位争い となり、結局この3チームがプレーオフに進出した。
プレーオフ制度導入の背景
プレーオフ制度 (日本プロ野球)も参照の事。
1952年
プロ野球の場合は、現在サッカーなど他の球技のような2部リーグが存在しないので、優勝争いが絞られる後半戦は、優勝争いに関係のない消化試合は観客動員数が大幅に減ってしまい、試合の質も落としてしまうことが課題となった。そこで1952年シーズンに、7チームで18回総当り・108試合の予選リーグを行った後で上位4チームが4回総当り・12試合の決勝リーグを行って優勝を決める方式を取り入れた。しかし、上位4チームの成績は予選・決勝を合わせた120試合の通算成績で争うものだったために予選落ちの下位3チームとの比較が出来ず、また予選落ちの球団から予選リーグ終了後は試合がないことで「置き去りにされた感じがした」などの批判が出たため、1年で取りやめとなってしまった。
1973年-1982年
1973年には2シーズン(前後期)制を採用。年間130試合(当時)のペナントレースを4-6月の前期ステージと7-9月の後期ステージ、それぞれ65試合ずつに分けることにして、前期・後期各ステージ優勝チームによる5戦3勝制の決勝戦(プレーオフ)で優勝を決める方式を取り入れた。それぞれのステージごとの優勝争い、そしてプレーオフと1年で3つのクライマックス(山場)を設けて観客動員の確保に努めようという考えである。導入当初は概ね好評で観客動員が比較的よく入ったが、日程面での課題もあった(前期が終了しないうちに後期が始まってしまったため、後期終了後に前期の未消化試合をこなすことがしばしば見られた)。1973年度のペナントレースは、雨天中止になった場合の予備日程を確保するという名目で、前期終了から後期の開幕まで約2週間ものインターバルを取ったことがあった。しかし日程が余りにも空きすぎるとして翌1974年からインターバルをなくした連続開催形式での日程に変更している。また従来の半分の試合数で優勝が決まってしまうため、結果として消化試合が増加する(更に極端な話、前期優勝したチームは後期全ての試合を消化試合に出来てしまう)という問題もあった。1980年代に入ると極端に観客動員が減少してしまったため2シーズン制を行う意義が薄れたとして1982年度の大会を最後にそれを打ち切った。
1983年-1985年
1983年から2シーズン制に代えて変則1シーズン制を導入することとなった。これはいわば2シーズン制と通常の1シーズン制(同勝率の場合にのみプレーオフを行う)の中間に位置する折衷案として企画されたもので、130試合終了時に1位と2位のゲーム差が5ゲーム以内である場合、5戦3勝制を原則としたプレーオフを行うというものだった。但し勝率の計算はプレーオフを含めた成績ではじき出すため、1位のチームが1勝した後、2位のチームが残り4試合に全勝しても勝率が1位のチームに届かない場合はその時点で1位チームの優勝となるといった複雑なルールがあった。しかし、実際には優勝した各チーム(83年、85年は西武、84年は阪急)が2位以下に大差を付けて圧倒的な優勝を決めたことからプレーオフの実施には至らず、この制度は1度も実施されぬまま廃止となり、「幻のプレーオフ」といわれた。