なお、踊りで有名なウブドの隣の村であるプリアタンの王族に伝わる話によると、バリ人はそもそも、モンゴルの付近に住んでいた民族に始まるとされている。
話は、高貴な白い肌をした女性と、低い身分の黒い肌をした男性が恋に落ちることから始まる。しかし、その恋は恥ずべきことであったので二人は駆け落ちをし、チベットの付近に暮らすことになった。そこでしばらく民族として定着した後に、インド側へ山を降りて北インドにたどり着き、やはり一民族として定着して暮らしていたが、やがて東南アジアに移動。バリに移る直前はジャワ島で暮らしていた。ところが、イスラム教徒がジャワ島に侵入し攻撃を始めたために、バリ島へ移動したというのである。伝説では、当時はジャワ島とバリ島は陸続きだったのを陸橋を切ってバリを独立した島にしたのだという。
経済と観光―バリ島経済を支える観光業バリの市場 (パサール)
芸能・芸術の島として知られ、かつ、早くからビーチ・リゾートが開発されてきたバリは、世界的な観光地となっており、東南アジア各地のビーチ・リゾートのモデルとなっている。先進国の経済的価値を基準として比較すると物価水準がかなり低廉であり、比較的若年層でも十分楽しめることも人気の一要素である。訪れる観光客で一番多いのが日本人であり、二番目はオーストラリア人である[40]。
したがって、バリ島の貨幣経済は観光収入で成立するものとなっている[41]。バリ州の産業部門別就業人口を見てみると、1971年には農林漁業が66.7%、商業・飲食・ホテル・サービス業が18.8%であり、1980年でも農林漁業が50.7%、商業・飲食・ホテル・サービス業が29.8%であったのが、2004年には農林漁業が35.3%にまで減少し、商業・飲食・ホテル・サービス業が36.4%に達している[42]。
農業島中部に見られる棚田
バリ島経済の中心には農業 (水田耕作) が伝統的に位置してきたが、世界的な観光地として成長した今でもなお、30%以上が農林漁業に従事している。スハルト体制以来の観光開発が南部バリの一部地域で集中的に行なわれたためである。水田耕作のほかには、ココナッツやコーヒーの栽培が盛んであり、樹園地ではバナナ、オレンジ、マンゴーが、畑では大豆、サツマイモ、落花生、キャベツ、トマトなどが栽培されている[43]。
また、1985年から2004年の間にバリ州における水田の面積は98,830から82,053へと16,741ヘクタールが減少し、その分、屋敷地および建築用地は27,761から45,746へと17,985ヘクタール上昇しており、水田の宅地化が進んでいることが分かる (しかし、この間の収穫量は品種改良によって増加している) [44]。こうしたなかで、土地所有層は地価の上昇による利殖の機会をさまざまに手にするようになっているが、他方でスバックのメンバーの圧倒的多数を占める小作人にとっては、農地の宅地化、近代化は失業を意味し、深刻な問題ともなっている。
観光地州都デンパサール
バリでは高層建築が厳しく規制されているため、州都でも青空が一面に広がるウブドのホテル
バリ島は、海辺のリゾートはもちろんのこと、山側のリゾートとしてウブドなどの村もあり、質の高いバリ舞踊やバリ・アート、バティック等の染色技術、竹製の製品等、伝統的な文化や民芸品を目にすることができる。こうした地域では、物質文明・近代文明のしがらみに疲れた西洋人や日本人がバリに長期滞在しバリの文化を学んで行くケースも多く、数ヵ月から数年バリに滞在する者たちの間では、絵画、音楽、彫刻、ダンスなどを学び、さらには独自の芸術的な活動を始める人びとも見られる。
また、島には、ヒンドゥー寺院のみならず、仏教系の遺跡も多く、ヒンドゥー教と仏教の混淆の跡が残されている。
主な観光地
州都デンパサール - バリ博物館
芸術の村ウブド - ネカ美術館 - モンキーフォレスト
木彫の村マス
港町シガラジャ
キンタマーニ高原
アグン山 - ブサキ寺院
タナロット寺院
タマン・アユン寺院
ウルワツ寺院
リゾートホテルのヴィラサヌール・ビーチ
バリ島はサーフィンのメッカのひとつであり、乾季・雨季を問わず良質な波を求めて世界各国からサーファーが訪れる。サーフポイントも多くあり波質もさまざまである。また、スキューバダイビングのスポットとして有名な海辺がある。トランベンという、日本軍が沈めたアメリカの輸送船リバティ号が沈んでいるスポットもダイバーの中では大変有名である。
最近ではサーフィンで生計を立てている者も多く、サーフショップやサーフガイド、またはサーフィン関連のスポンサーから収入を得ているプロサーファーも多い。
主なリゾート、ビーチ
クタ
レギャン
サヌール
ヌサドゥア
チャンディダサ
マデウィ
ジンバラン
観光客に対する犯罪クタのサンセット