規制緩和の一環として不況下の経費削減、殊に固定費削減のため企業の業務を担う人員や、業務そのものを企業本体から切り離し外部から調達する方法も取られる様になった。
人員
人材派遣業会社から人員を調達して企業の業務に当たらせることで雇用を流動化させた。企業にとって派遣は保険や年金等の社会保障を省略できる事、また、定年までの雇用の義務が無い事から、年金に対する負担が無い事、景気に応じて雇用の調整弁として有用なこと、そして、能力に応じた賃金を支払えば良く、年功序列に応じた高賃金の支払いを免れる利点がある。
業務
材料・部材、或いは製品そのものの製造を外部に委託し、設備投資や固定費用の削減を図る。更に、サーバー管理業務、DM発送業務を委託する事例も増えた。
一方で、これらの供給を行う人材派遣会社、業務請負会社等も成立し、業績を伸ばしてきた。
失われた10年の就職氷河期に曲がりなりにも雇用が確保されたのは、これら非正規雇用による賃金切り下げの効果なのは疑いがない。しかし、2007年現在、非正規雇用は全就業者の1/3を占めるまで増加し、バブル期以上といわれるまでに企業が利益を出しても彼等の待遇は変わらない。
何歳になっても、また何年勤めてもいつ解雇されるか判らないため、子供どころか結婚も出来ない非正規雇用の若者(特に男性)が増加したと言われている。
日本では企業間で株を持ち合ったり、銀行が取引のある会社の株を持って安定株主を確保する傾向が強かった。株価上昇時には、この株も含み益をもたらしたが、株価下落に伴い、逆に含み損となって企業の会計を圧迫する負担要因となる。とりわけ銀行が株を所有していたことについては、安全と堅実を旨とすべき金融機関が不安定な資産、いわば博打に資金を投じた、といった批判が寄せられた。
また、各々の銀行について、どこまで日経平均が下がれば所有する株が含み益から含み損に転じるかを調査し、それによって銀行の経営の優劣や健全性を論じることも行われた。また銀行の大半が含み損に転じる日経平均指数を算出し、「そこまで下がることはない」「そこまで下がらなければアク抜けせず株価は反転しない」「そこまで下がったら日本経済は崩壊する」など、各種の意見が出された。
同時に、株を売却し、相互に持ち合う関係を解消する動きも出てきた。これは安定株主の喪失を招き、後に株の買い占めによる乗っ取りなどの事例が増えることにつながった。株主が次第に存在感を増すようになり、利害関係者の対立を背景に「会社は誰のものか」という議論がなされるようになった。
会社の所有する不動産等が、本当に経営に見合うものかを精査する傾向が出てきた。保養地等を売却する動きが出たほか、オフィスをより賃料の安い場所に移して固定費を削減したり、本社ビルを売却して獲得した資金で経営の立て直しを図る会社も現れた。ビルの売却に際して、オフィスは入居したままで、新たな所有者に賃料を支払う形式にする例もある。
それまでは土地神話もあり、土地は単に所有するだけでも資産価値があり、その価値は毀損しないものと思われた。土地の価格の算定にあたっては、取引事例比較法により、今までの取引実績や周辺での土地取引の事例に基づいて値段を決める方法が主だった。バブル崩壊後は、その土地が賃料等で上げる収益を勘案する収益還元法による評価方法も考慮される様になった。
バブル景気のもとで地価が高騰するに伴い相続税額も膨らみ、いざ不動産を含む相続が発生すると手持ち資金が無く、相続税を払うことが出来ずに困窮する事態もあった。これに備える策の一つとして、借金をして変額保険に加入する手法が、盛んに喧伝された。
保険を投資信託に似た投資勘定で運用することから、株価が上がる状況下では運用益を借入金返済の一助とできるし、保険金額(即ち資産)が増やせ、また、借金と相続資産を相殺して相続税額が抑えられ、さらに払い渡される保険金には別個の控除枠があり相続税の節税にもなるなど、良いことだらけの方法として、銀行から多額の借金をしてでも加入することが勧められた。最盛期には、払い込む保険掛け金を融資する銀行の担当者と、保険契約を結ぶ保険会社の担当者が、連れだって販売にまわることさえあった。
バブル崩壊後は不動産の価格が大きく下落すると同時に投資信託が大きな損失を出して受け取れる保険金額が目減りし続ける一方、借金はそっくり残り、場合によっては保険金を含めた全資産がマイナスに転じるなど、契約者を苦況に陥れた。満期時の返戻金額が元本を大きく下回り、手数料もかかることから解約にも踏み切れず、株価が下がるにつれて見る見る保険金額が減っていくのを目の当たりにして「私が早く死んだ方が良いということか」と問う被保険者に、担当者が「然り」と答えた事例も伝えられる。満期時の保険返戻金が、最低額が保証されている死亡保険金を大きく下回った場合には、死亡保険金を獲得する為に被保険者が自殺を選択した例もあった。
後に、顧客側からリスクの説明を怠ったとして多くの訴訟が起され、だいたいのケースでは顧客と販売者双方の過失を認めるとともに、販売者側に損害賠償を命じている。
バブル崩壊後の不況を受けて契約の解約が相次いで保険掛け金収入が減少し、また株価低迷を受けて保険金運用実績も思わしくなく、保険会社の経営を圧迫した。バブル期には貯蓄性の高い年金商品を中心に高い予定利率を約束した商品が販売されていたが、資金運用の実績が予定利率を下回る逆鞘状態に陥った。一部の保険会社は最終的に破綻に至り、その顧客の契約が他会社に引き継がれる際には保険金額の削減や予定利率の低減が行われた。
また、逆鞘状態をアピールして、保険会社の都合で一方的に予定利率を削減できるスキームを設けることも検討された。
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バブル景気が膨張を続けてしまい、また、バブル崩壊からの脱却に長期間を要した原因については、政府・日銀の経済政策の失敗が指摘されている。
まず、バブルの発生については先に述べた通り、1985年のプラザ合意による急速な円高で景気が悪化することを恐れて、財政・金融政策による景気刺激が行われたことが原因とされている。政府は、数次にわたり経済対策を策定し、1987年5月には6兆円を上回る財政措置を伴う「緊急経済対策」をしたが、景気は1986年11月を底に既に回復していたため、景気を刺激し過ぎたという批判がある。
第二に、バブルの膨張を抑止できなかった理由として、金融緩和を続け過ぎたことが指摘されている。公定歩合は1987年2月に2.5%に引き下げられ、その後1989年5月までこの水準を維持した。この原因としては、1987年のブラックマンデーによる世界的な株価の下落があり、日本に金融緩和が求められたことがある。金融緩和が続けられた国内の要因としては、第一に、政府が財政再建のために赤字国債からの脱却を目指しており、金融政策による景気刺激を求める政治的な圧力があったことがある。第二には、大幅な経常収支の黒字を背景とした円高圧力があったことから、金融緩和によって円高を回避しようという政府・与党などからの圧力があったことが指摘できる。急激な円高に苦しむ輸出企業の体力を強化するためにも金融政策は緩和的であるべきという認識もあった。この反省から、1997年に日銀法は改正されて、日本銀行の独立性が高められた。