ハンガリー動乱
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日本における評価

ハンガリー事件についての日本の思想的状況については、小島亮の『ハンガリー事件と日本』に詳しい。そこには日本の政治家や思想家のハンガリー事件に関する評価があり、保守・右翼・反共の立場からは佐々淳行が自分はハンガリーの警察が民衆を弾圧したやり方で弾圧するようなやり方を取りたくないという論を(実際に佐々がそのようなスタンスで警察官僚として臨んでいたのかという議論は別にして)展開しているほか、西尾末廣芦田均らが反共、民社の立場から、ハンガリー事件におけるソ連の行動について、スターリニズムのソ連と今のソ連が異なるというのが事実ではないと批判し、ハンガリー難民の救済を名目に、日本ハンガリー救援会を組織した。

しかし、これらの活動や思想は、真にハンガリーの民主主義やハンガリーの政治難民を救うことを目的としているというよりも反共主義的な立場が強調されていること、またハンガリー難民の救済などもソ連を刺激しないという政治的理由から次第に沈静化したことなどもあって、進歩左翼の立場の人たちの大半は冷たい態度を取った。大内兵衛が雑誌『世界』における「歴史のなかで」(1957年4月号)におけるハンガリー事件でのソ連介入止む無しの発言の背景にあったのは社会主義国の総本山とも言えるソ連への畏敬の念と同時に保守・右翼の反共に対する反発というのが混ざった形で表れており、中野重治もハンガリー救援会に対する皮肉めいた文章を残している。これは社会主義者だけに限らず、進歩的知識人と呼ばれた人にも見られ、野上弥生子のハンガリー救援会に対する冷たい態度や(『中央公論』1957年2月号「地球儀とハンガリア」)にもあり、上原専禄も先に引用した「歴史のなかで」において神経質な国民との差別めいた発言を述べている。

これら進歩・左翼の知識人に見られるハンガリーへの冷淡さは社会主義に対するシンパシーであると同時にハンガリー自体に対する差別意識もあったとされる。大内は「歴史のなかで」においてハンガリーを百姓国と蔑視めいた言葉遣いをしており、山川均も当初はハンガリー事件に対して同情的なスタンスであったものの(『世界』1957年2月号「ハンガリア動乱をめぐって」など)、「歴史のなかで」では(農民主体の国だから)労働者はそれほどいない(だから革命などありようがない)という物言いをしており、社会主義シンパシーへの進歩性と同時にそれにそぐわない国であるハンガリーは遅れた国という独善的な偏見とみなされてもやむをえない態度を示した。

その一方、新左翼(小島亮は「ニューレフト」と称している)は日本社会党日本共産党が政治的理由からハンガリー事件について反革命であるとのスタンスを取ったこと[11]に失望し、黒田寛一や大池文雄はハンガリー事件におけるソ連の軍事介入を批判するとと同時に日本共産党における宮本顕治主導の共産党体制をスターリニズムに基いていると批判した。彼らのスタンスではハンガリーの人民民主主義と称されるものは人民の基盤に基いていないソ連の都合に合わせた体制である[12]とし、ソ連の軍事介入を非難しハンガリー事件を革命と評している。

ハンガリー事件の思想をめぐる日本における難しさは、ハンガリー事件が政治的、イデオロギー的な理由から左右両翼の政治闘争と化してしまったことも一因とされる。ハンガリー事件をハンガリー動乱と呼ぶのか、ハンガリー事件と呼ぶのか、はたまたハンガリー革命と称するのかはこれらの動きと密接に関係がある。ただし、右派が動乱という言葉を使っているケースもあれば、左派が革命、事件といった言葉を使っているケースもあり必ずしも定義づけられてはいない。


再評価

ペレストロイカの影響でハンガリー社会主義労働者党でも改革派の勢力が強まり、1989年に至り動乱の評価を修正し復権させた。ハンガリー社会主義労働者党の自らの自己批判は、後の東欧革命への導火線となった。

1989年2月の総括文書「四十年間に関する報告」の中に「1956年10月の大衆蜂起」と動乱を武装大衆蜂起とする規定に定めた。反革命と言う表記を改め、「大衆の目からは、一種の民族独立運動」に転化したと指摘した。また、ソ連軍の第二次介入(11月)中にも社会主義の徹底的民主改革と革新への努力が力となり、それは動乱中にも存在し続けた。と記述している。結局、ナジ政権は、その努力にもかかわらず、情勢へのコントロールを失い、逆に情勢に押し潰されたと分析した。

1989年3月のナジの遺体発掘により、再評価は決定的となった。再埋葬式の式典に際し、表明が載せられた。

式典は再埋葬を歴史的、象徴的出来事と捉えている。 

ナジと裁判で有罪となった政治家の正当な評価。

ハンガリー事件の正当な評価及び、外国への事件の資料の公表許可。

ナジはハンガリー史において重要な人物であり、国家救済の為に闘い、スターリン主義を抑え、不正を許さず反革命と闘った。彼は道筋は誤ったが、民主的複数政党制を認める社会主義の道と一体化した。

事件のすべての犠牲者はハンガリー国民である。この国民的損失を、ナジの再埋葬式典で、国民和解のシンボルとならなければならない。

ハンガリーはこの年を持って社会主義独裁を放棄した。それはナジの理想その物であり、冷戦の終結にも重要で計り知れない役割を演じた。ハンガリー政府は、自国の国民和解のみ為らず、西欧資本主義社会とも和解を演出した(鉄のカーテン撤去。汎ヨーロッパ・ピクニックへの協調)。1968年の「プラハの春」にも社会主義国家で唯一最初に正当に評価を下した。そして1989年10月23日、ハンガリーは一滴の血を流す事もなく社会主義を捨て、ハンガリー共和国を建国し、ヨーロッパへ回帰するのである。この日は、ハンガリー革命が起きたその日である。


脚注^ その他に、日本語文献中に用いられる呼称としては、ハンガリー事件、ハンガリー革命、が存在するが、wikipedia日本語版においては、ノートにおける呼称に関する議論が解決するまでの間は、報道機関などで慣習的に使われる「ハンガリー動乱」と基本的に表記する。
^ 草思社「フルシチョフ 封印されていた証言」
^ 1905年のロシアや1917年ロシア革命で結成されたソビエトと酷似し、1919年クン・ベーラが率いた革命政権でも主導的な役割を果たした


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:Mamenoki