ハバナの平均気温は25°Cで、亜熱帯気候に属する。年間降水量は1224mmで、5月〜11月は湿度が高い。
キューバはハリケーンの通り道にあたるため、ハバナも被害を受けることが多い。近年では2005年7月にもハリケーンの直撃による被害を受けている。
ハバナ旧市街は全盛期のスペイン・コロニアル様式が完全に保存されており、1982年に旧市街などが世界遺産に登録された。スコットランドのグラスゴーとは姉妹都市関係を結んでいる。
文豪アーネスト・ヘミングウェイがこよなく愛した街としてもよく知られる。ヘミングウェイは晩年をこの街で暮らし、名作『老人と海』をここで書き上げた。なお、市南東部郊外には、ヘミングウェイの記念館がある。
100万人以上の都市で食料自給率100%を達成しているのは、世界でもこのハバナだけだと言われている[要出典]。
ハバナの始まりは、コンキスタドールであるディエゴ・ベラスケスが、1514年にキューバ島の南岸(バタバノ湾側)にある現在のスルヒエドロ・デ・バタバノの近くに居住地を築いた時点まで遡る。現在地(メキシコ湾側)に都市が移されたのは1519年のことで、1607年にはキューバ植民地の首府となった。1519年以降、港を中心に都市を築かれていったハバナは、スペインの新大陸における植民地経営の中心地として、及びに貿易の主要な中継地として発展した。
しかし、1538年には海賊による焼き討ちにあい、1553年と1555年にも略奪を受けるなどの被害を受けた。また、七年戦争下の1767年にはイギリス軍によって攻囲された。スペイン軍が降伏して自由貿易港になると、多数のアフリカ人奴隷がハバナへ連れ込まれた。戦後、スペインとイギリスの間の協定によってイギリスはキューバを返還してフロリダを受け取った。スペインはこれに懲りてハバナの要塞化を進め、アメリカの全域でももっとも強固な要塞都市とした。カピトリオ(旧国会議事堂、現博物館)
1898年、ハバナ港でアメリカ海軍の戦艦メインが爆発、沈没し、米西戦争の発端となった。
ハバナは、1902年のキューバ共和国独立により、キューバの首都となった。1920年代、アメリカ合衆国で禁酒法が施行されると、アメリカ人たちは享楽を求めてハバナを訪れるようになった。その結果、ハバナにはアメリカ人富豪の別荘が多く立ち並び、多くの観光客によって高級クラブやカジノがにぎわうリゾート歓楽都市として大発展した。ただし、こういった娯楽施設のほとんどは、1959年のキューバ革命に伴って閉鎖された。
1959年のキューバ革命によるバティスタ政権崩壊と共産党革命政権樹立後も、キューバの首都としてのハバナの位置は引き続き変わらなかった。むしろ革命政府は、ハバナをキューバ社会主義建設の中心地たる生産都市へと変えるべく、「大ハバナ都市圏」として住宅地帯、新工業地帯、自然公園などの都市整備をはかる都市計画を実施した。その結果、1960年代に市内の商店とホテルが国営化され、大邸宅はことごとく学校や公共建物に流用された。また、バティスタ政権下ではコロンビア兵営だった施設は教育センターに、旧大統領宮殿は革命博物館に変えられた。
ハバナ港はキューバ最大の貿易港で、キューバが輸入した品の約90%が同港からキューバ国内に持ち込まれる。また、主にハバナ周辺で栽培されるタバコやサトウキビが同港から輸出されている。
最近では観光事業振興にも力を傾けており、主に旧ソ連、ヨーロッパ、カナダなどから観光客が集まってくる。17世紀〜18世紀にかけて建設されたハバナ湾西部の半島部を占める旧市街地は、白い建物が多いスペイン風の美しい街並みで、今なおスペイン植民地時代以来の歴史的遺物が残っている。
旧市街地の西方にある広大な新市街地は、第一次世界大戦後のアメリカ及びキューバの資本家や、バティスタ政権の政府要員の高級住宅地として開発された地で、広い道と近代的な高層ビルが立ち並んでいる。旧市街地と新市街地の間には、革命広場がある。
また、小規模ながら中華街が存在しており、中国系のキューバ人が住んでおり、中華レストランがいくつかある。
ホセ・マルティ国際空港:ハバナ中心街から南方約14?の地点にある。フラッグ・キャリアのクバーナ航空などによりロシア、フランス、スペイン、カナダ、メキシコならびに近隣カリブ海諸国との間に定期便が就航している。
ハバナ大学
ハバナ市博物館:スペイン植民地時代に、スペイン総督官邸だった建物を流用。
革命博物館:1920年〜1960年に大統領官邸だった建物を流用。
ガルシア・ロルカ劇場
カテドラル(司教座大聖堂)
モロ要塞:かつて国営警備隊の兵舎だった施設。
フエルサ要塞:アメリカ大陸で2番目に古い欧州人の建物。
革命広場:ホセ・マルティの銅像が建っているホセ・マルティ・メモリアルで知られる。