アイゼンハワーは1948年7月にコロンビア大学の学長に選ばれ、ニューヨークに居を構えた。1945年以来、大統領候補となる可能性を指摘されてきたが、1936年以来積極的に共和党大統領候補としての指名を求めていたマッカーサーと異なり、政治にほとんど関心がなく、選挙で投票したことも無かったので共和党支持か民主党支持かも知られていなかった。
トルーマン大統領は否定しているが、歴史家の何人かは、1948年の大統領選挙でトルーマンがアイゼンハワーを支持して引退することを申し出たとする。1952年の大統領選では、民主党・共和党の両党から立候補を要請された。アイゼンハワーは出馬を最初拒絶したが、結局説得を受け、共和党の大統領候補として立候補することとなった。共和党の候補となった理由としては、民主党が20年間大統領を輩出し、その変更を国が必要としたので共和党を選んだとアイゼンハワーは語った。オハイオ州選出の上院議員ロバート・タフトを破り、共和党の大統領候補としての指名を得た。
大統領選の序盤には、アイゼンハワーは「非政治家」としてキャンペーンを行い、対立候補であるイリノイ州知事のアドレー・スティーブンソンについて言及しなかった。その代わりに、他の共和党員が、彼の温厚な公のイメージを守りつつも、民主党員を「共産主義に寛大」として非難する冷戦キャンペーンをすることを黙認した。このため、彼はカリフォルニアから選出された上院議員、リチャード・ニクソンを副大統領候補に選んだ。アイゼンハワーとニクソンは442の選挙人の投票を得て、11月の選挙に勝利した。対するスティーブンソンの得票は89だった。
外交問題国務長官ダレスとともにワシントンD.C.を訪れた南ベトナムのゴ・ディン・ジエム大統領を迎えるアイゼンハワー
アイゼンハワーの大統領時代は、ソ連を筆頭とする東側諸国とアメリカ合衆国を代表とする資本主義陣営との冷戦の時代であった。国務長官ジョン・フォスター・ダレスは、共産主義との戦いを指揮した。しかし、共和党の過激な反共主義者の煽動にもかかわらず、アイゼンハワーはジョージ・ケナンによって提唱された封じ込め主義を受け、中道路線を追求した。アイゼンハワーは行き詰まった朝鮮戦争を終了すると約束し、停戦は1953年7月に署名された。アイゼンハワーは大韓民国および中華民国との防衛条約に署名し、アジアでの共産主義の普及をとどめるために、東南アジア条約機構を形成した。
1956年にアイゼンハワーは、スエズ運河の管理に関する論争でイギリスとフランスのエジプトへの軍事介入を強く非難した(スエズ危機)。彼は、エジプトから英仏の手を引かせるのにアメリカの経済支配力を使用した。大統領職二期目中、1957年にレバノンへ軍隊を送り、またシャー・マホメット・レザ・パーレヴィが権力を回復するためのイランでのクーデターを支援して、中東問題にますます没頭するようになった。
アイゼンハワーの大統領職の下、アメリカは初の世界的核戦力を保持したが、世界は核兵器を含む第三次世界大戦を恐れていた。アイゼンハワーは、1953年のスターリンの死後、後継者のニキータ・フルシチョフと核兵器競争の停止の合意に達する可能性を望んだ。ソ連のリーダーと首脳会議を開催するいくつかの試みはなされたが、最後のそのような試みは、1960年にソ連上空でU-2偵察機が撃墜されたこと(U-2撃墜事件)で失敗した。 フルシチョフは、自身の回想録音テープの中で、事あるごとにダレスの助言がないと返答出来ない、とアイゼンハワーを見透かし、自国と自身の優位を感じたという。
なお1960年6月には岸信介首相の招待を受けて日本を訪問しようと試みたが、安保闘争の最中の6月10日に、訪日の日程を協議するため来日したジェームズ・ハガチー大統領報道官が東京国際空港周辺に詰め掛けた訪日反対デモ隊に包囲され、アメリカ海兵隊のヘリコプターで救助されるという事件が発生し、さらに6月15日には、警官隊が国会議事堂正門前でデモ隊と衝突し、デモに参加していた大学生が圧死するという事件が発生したため、最終的には訪日をキャンセルした。
大統領任期末期において、社会主義革命政府が誕生したキューバに対して国交断絶と経済制裁を行っている。
アイゼンハワーは多くの共和党大統領と同じく、自由企業経済が自らを発展させるべきだと考え、国内政策に殆ど興味を持たなかった。彼の1952年の圧勝は共和党に上下両院の主導権を与えたが、民主党は国内政策に対する批判で、1954年の中間選挙で主導権を回復した。アイゼンハワーは、議会リーダー、特に下院議長サム・レイバーンとの良好な関係を作り上げることで対応した。
アイゼンハワーは多くの実業家を閣僚に任命し国を統治させた。それによって外交問題に専念することができた。1950年代、共産主義および黒人公民権の二つの主な問題において彼はリーダーシップを発揮しなかった。しかしながら、1957年にはアーカンソー州のオーヴァル・フォーバス( ⇒en:Orval Faubus)知事がすべての公立学校の人種差別廃止を命じた最高裁判決を無視することを試みた後に、同州リトルロックへ連邦軍を送った。
アイゼンハワーは上院議員ジョセフ・マッカーシーによる反共産主義のキャンペーン(赤狩り)に対する公的な態度をとらなかったことで非難されたが、彼は私的にはマッカーシーを嫌っていた。友人でもある大戦中の同僚で、トルーマンの下の国務長官だったジョージ・マーシャルをマッカーシーが非難していたからである。アイゼンハワーは「私は彼に跪いて落ちぶれるつもりはない」と非公式に言った。