ドイツ民主共和国
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概要

ドイツ民主共和国は、反ファシズムを最大公約とした複数政党による議会制民主主義国(人民民主主義)の形態を採っていたが、実際はドイツ社会主義統一党(SED)が独裁政党として指導権を有していた。同党以外の政党も一応存在が許されていたが、衛星政党としての性格が強かった(ヘゲモニー政党制)。ソ連軍が駐屯する東西冷戦の最前線でもあり、政治的・軍事的にはソ連衛星国であった。

また、秘密警察である「国家保安省(シュタージ)」による国民の監視が徹底され、言論の自由などは無いに等しかった。シュタージは職場や家庭内に非公式協力員(IM)を配置し相互監視の網を張り巡らせた。

経済では第二次世界大戦の被害と、ソ連による賠償の取り立てを乗り越え、中・東欧社会主義諸国でも最も発展し、女性の社会進出(人民議会議員の3人に1人、校長は5人に1人、教師は4人に3人、市長は5人に1人は女性であった)や電化製品の普及が進んだ「社会主義の優等生」「東欧日本」とも呼ばれていた。

1980年代には、裁判において陪審員制度も導入され、ガス抜きとしての役割を果たしていた。また、徴兵制導入後すぐに兵役拒否者が続出したため、西ドイツに人権尊重の面で負けていないことを国際的にアピールする上でも良心的兵役拒否が合法的に認められ、代替役務が制度化されていた。なお、1987年には死刑を廃止した。

1970年代以降は公共投資が進み、日本鹿島建設などの進出により、東ベルリンには高層ビルも建築され、生活水準もある程度上昇していたが、西ドイツに大きく水を開けられ、消費資材などの供給が少なく(例えば、自動車は申し込んでから7~8年以上待たないと納車されなかった)、重化学工業生産が優先されていた。


歴史

ドイツの歴史

先史時代
ゲルマン人
民族移動時代
フランク王国
中世
東フランク王国
ドイツ王国
神聖ローマ帝国
東方植民
小邦分立
近代
ライン同盟
ドイツ連邦
1848年革命
北ドイツ連邦
ドイツ統一
ドイツ国
ドイツ帝国
第一次世界大戦
ヴァイマル共和政
ナチス・ドイツ
第二次世界大戦
第二次世界大戦後
連合軍軍政期
ドイツ人追放
西ドイツ + 東ドイツ
ドイツ再統一
現在
ドイツ

第二次世界大戦を経て、ドイツは・ソの四か国による占領下に置かれた。しかし、戦後の冷戦構造が固定化されていく中で、この四か国の協調は困難になっていった。1948年より、米・英・仏の占領地域による通貨改革を皮切りに、経済・政治両面における分断国家形成の動きが見られ、ソ連側もベルリン封鎖で対抗するが、東西ドイツ分断は決定的となった。1949年9月のドイツ連邦共和国(西ドイツ)建国を受け、翌10月にドイツ民主共和国(東ドイツ)の建国が宣言された。

形式的には複数政党制が採られたが、実際はドイツ社会主義統一党(SED)の一党独裁体制であり、計画経済の下で1951年より第一次五カ年計画が開始された。計画実施の為に中央集権化が図られ、連邦主義的な州は廃止されて14の県(Bezirk)へと再編された。

1953年3月、ソ連のスターリンが死去したことは、東ドイツ指導部を動揺させた。また、抑圧的な政府の姿勢に反発して東ベルリン労働者のデモが起こっており、これを契機として東ドイツ各地で市民が反ソ暴動を起こした(六月十七日事件)が、ソ連軍の介入によって弾圧され、6000人以上が逮捕された。

無謀な計画経済・農業集団化は、東ドイツ経済を麻痺させていった。東ドイツの将来に絶望した人々は、唯一境界が開かれていたベルリンを経由して西ドイツへ逃亡して行った。こうして、青年層、知識人、熟練労働者などの流出が深刻化したため、政府は1961年8月に西ベルリンとの境界を完全に封鎖、この境界にはやがてベルリンの壁と呼ばれる壁が建設され、東西冷戦の象徴となった。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:Mamenoki